ベトナム人と結婚するということ指さし会話帳で育んだ愛
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バンコク、ホーチミンシティ、シェムリアップ……。ときに孤独でも、騙されても、この街にいると心が楽になる。旅をすることで救われ、やっと心が自由になった。人生の答えを求めアジアで暮らす人たちの、心温まるストーリー。光文社知恵の森文庫『新版「生きづらい日本人」を捨てる』第7話から一部をピックアップ!

 

引きこもりから、ホーチミン暮らしへ

 

秋元(仮名)に会ったのは、ホーチミンシティの郊外にある一軒の家だった。そこには日本人の老夫婦が暮らしていた。

 

家を訪ねると、老夫婦と一緒にひとりの青年が暮らしていた。

 

「不肖の息子ですよ」

 

年齢を訊くと40歳を超えていた。見た目が若く見える。僕はてっきり30歳代の前半かと思っていた。

 

日本にいたときは、ひきこもりのような生活をしていたと聞いた。半ば強引にベトナムに連れてきたようだった。家族に引きずられるようにして心療内科の診察を受けたのは35歳のときだった。統合失調症――。医師はそう診断した。

 

ホーチミンシティをゆったり流れるサイゴン川(撮影/下川裕治)

 

2回目に彼に会ったのは、半年ほどがすぎた頃だった。

 

そこで僕は、秋元の結婚の意志を告げられた。トゥク(仮名)という、老夫婦の家で働いていたお手伝いさんだった。

 

秋元はベトナム語をほとんど話すことができなかった。トゥクは30代の女性だったが、日本語は、「こんにちは」というあいさつを口にする程度だった。そんなふたりが、どう会話を交わしたのだろうか。恋愛に言葉はいらないのかもしれないが、それにしても……。

 

「彼女のほうから、日本語を教えてほしいっていってきたんです。持っていた指さし会話帳があったんで、それを開いて。彼女は小さなノートを用意していて、猫の絵を指さして『ネコ』って発音して、ベトナム語でネコって書く。彼女は前向きというか、こうやって言葉を覚えていくんだなぁ……と」

 

指さし会話帳に結婚という文字はあったのだろうか。とにかく話は決まっていた。

 

「ただ継母がこころよく思っていないんです。僕らがふたりで床に座って、指さし会話帳を見ていると、いい顔をしない。だから、あの家では、結婚の話ができなくて。でも、いくら継母が反対したところで、結婚します。これは僕らの問題ですから……」

 

何組ものアジア人女性と日本人男性の夫婦とつきあってきた。少し強引かもしれないが、互いの言葉をある程度、理解できる夫婦はトラブルが少ないような気がしている。相手の言葉を互いに勉強することは、夫婦という契約を続ける誠意のような気もするのだ。

 

3000ドルがもたらした波紋

 

ことはそうスムーズには運ばなかった。言葉を習う時間もなく、ふたりはホーチミンシティを離れ、田舎の村に移ったことを後日、知ることになる。

 

突き詰めれば「金」ということかもしれない。

 

老夫婦がベトナムを引きあげるのを前に、トゥクは田舎の村に戻っていた。秋元はいったん老夫婦と日本に戻り、準備を整え、1、2ヵ月でベトナムに戻る段どりだった。

 

秋元がベトナムを離れるとき、彼はトゥクに3000ドルを託した。秋元は結婚費用のつもりだったようだ。

 

トゥクはその金を、世話になる姉に預けた。その金がなくなったわけではない。姉はしっかりと保管していた。しかし庶民にとって3000ドルという大金は、静かだった池に投げ込まれた小石のように、平穏だった暮らしに波紋を起こしてしまった。

 

「姉が借金を頼んできたんです。それに僕らの家賃と、食事をつくるトゥクへの給料でも少しもめたみたい。そのへんは、よくわからないんです。姉の家にしばらくいたんですが、ある日突然、ここを出て、私が生まれ育った村に行かないかってトゥクがいいはじめたんです」

 

姉たちの家に世話になり、借金の話が出てくると、その家を出ていく。親族の家を転々としているようなものだった。

 

ベトナムの緑は濃い。日射しも強烈だ(撮影/下川裕治)
デタム通りはバックパッカー街。秋元はこういう街があることを知らないかもしれない(撮影/下川裕治)

 

アジアの人々の目に映る日本人は、豊かさをまとっていた。

 

日本人が月々受けとる給料は、彼らの10倍、いや20倍だった。仮に30万円を超える給料をもらっているなら、4000ドルにもなる。それだけもらっていれば、1000ドルを用立てることは、そんなに難しいことではないはずだ。アジア人が頭のなかで、そんな計算をしてしまうことはおかしなことではない。

 

しかし秋元は何年もの間、仕事に就いていなかった。統合失調症を患っていたと説明しても、それがどういうことなのかわかる人は少ない。

 

秋元を理解しているのはトゥクだけだった。彼女は締まり屋だった。老夫婦の家でお手伝いさんとしてもらった給料を貯め、マンゴーの苗を買っていた。実家の裏にそれを植えた。何年かすればそこに実がつき、収入になる。そんな女性だった。

 

だから、秋元の内実も知らずに、借金話を口にする姉たちが許せなかったのかもしれない。

 

ふたりは、親戚の家を転々とするしかなかった。

 

秋元はまだ、ホーチミンシティから車で2時間ほどの村に暮らしている。子供も生まれた。もう4歳ぐらいになっただろうか。

 

いまはこの村で最初に暮らした家の裏にあばら家を建てて暮らしている。

 

以上、下川裕治氏の近刊『新版「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の杜文庫)から再構成しました。(つづきは本書で)

 

下川裕治
1954年長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。新聞社勤務を経て独立。アジアを中心に海外を歩き、『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)で作家デビュー。以降、アジアや沖縄をメインフィールドに、バックパッカースタイルでの旅を書き続けている。

 

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