akane
2018/05/18
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2018/05/18
突然の解任劇だった。
ロシアワールドカップを目前に控えた4月9日、日本サッカー協会会長の田嶋幸三は、サッカー日本代表監督ヴァヒド・ハリルホジッチの解任を発表した。
ハリルホジッチは、その後4月27日に日本記者クラブにて単独記者会見を開いたが、その内容に納得できた人はあまり多くないのではないだろうか。
作家・編集者の佐山一郎さんは、5月17日発売に緊急出版される『日本サッカー辛航紀』(光文社新書)において、「思い詰めた代表選手たちによるハリルホジッチ批判が採用され、ハリルはピッチ外のデュエル(決闘)に敗れた」とこの解任騒動を総括する。
1921年の第1回「天皇杯」から、2018年のロシアワールドカップ出場までおおよそ1世紀を、貴重な文献と著者自身の視点で振り返った同書では、1990年に勃発したある「解任騒動」についても触れられている。
驚くべきことに、サポーターが署名を集め、代表監督に解任を迫ったことがあったというのだ。当時のサッカー日本代表にいったい何が起こっていたのか。同書より、その詳細をお伝えする。
下村幸男監督時代の対ウーイペシュト・ドージャ(ハンガリー)戦(〇-〇/東京・国立競技場)で始まった一九八〇年代の代表戦は、八月一三日日曜夜のボカ・ジュニアーズ戦(〇-一〈前半〇-〇〉/三ツ沢)で終わる。ところが摩訶不思議なことに、それから先、八九年夏から九〇年春にかけての国際Aマッチはただの一つもなかった。だとしたら長期遠征の連続は一体何だったのか。「平成」元年でもあったその一九八九年夏以降のブランクを、平気で一年近くもつくってしまう奇怪なマッチメークの果てに燃え出したのが、ファンによる横山監督退陣要求なのだった。
代表チームは、九〇年七月下旬のダイナスティカップ(北京)と同年九月から一〇月にかけてのアジア競技大会(北京)での各三試合ずつで、バングラデシュ以外の韓国、中国、北朝鮮、サウジアラビア、イランから一ゴールも奪えずに敗れ去る。未曾有の大停滞に対する弁解の余地は、もはやどこにも無かった。
前年一九八九年一一月には東ドイツがベルリンの壁の通行を自由化する。東西冷戦の象徴でもあった壁が崩壊するのはその翌日のことだ。同年六月四日日曜には、中国北京で民主化運動による六四天安門事件が勃発し、武力弾圧によって一〇〇〇人以上とも三〇〇〇人ともいわれる学生、一般市民の死傷者を出している。
史上初の「代表監督退陣要求嘆願書」が、一般ファンと日本サッカー後援会会員による約一〇〇〇人の署名とともにJFAに提出されたのは、一九九一(平成三)年一月二三日水曜 の午後。寒風吹き荒ぶよく晴れた日の出来事だった。「不振サッカー日本代表に怒り」(朝日新聞)、「日本サッカーに愛想つきた」(日本経済新聞)と新聞各紙が書き立てるのも当然のことだった。じっさい、(私を含めた)少なくない数のメディア関係者が署名に応じていたのである。同月一七日には多国籍軍によるイラク空爆(湾岸戦争)が始まり、初の「戦争中継」に誰もがテレビの前に釘づけになった。そんな激動する時代情況が、日本のサッカー・ファンの異議申し立てをうながしたと言えなくもない。
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