下町の風景は、日本人のノスタルジーと深く結びついている
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BW_machida

2021/02/10

 

東京の下町とはどこの地域のことをさすのだろう。浅草、両国、葛飾柴又、門前仲町、谷中などなど、下町(下町的)の雰囲気を感じさせてくれる場所は幅広い。しかし、こうした地域は最初から下町と呼ばれていたわけではない。

 

たとえばレトロな雰囲気で若者や外国人に人気の街、谷中は地形的には下町ではなく、丘の上である。上野寛永寺とつながり、戦災をあまり受けなかった谷中は昭和を感じさせる商店街もあり、下町情緒の漂う雰囲気が魅力の観光地となっている。著者いわく、下町の歴史は人々の住まいや商業、娯楽機能の発展と深い関わりがあるという。重要なのは地形的なことだけではなく、人々の生活が1970年代に様変わりしたということにもあるらしい。

 

「下町」のかたちは時代とともに変化してきた。人口の増えかたの特徴から見ると、東京の下町は4つの段階に分けることができる。「第一下町」と呼ばれる旧区名の日本橋、神田、京橋は江戸以来の下町で1920年以前は人口が最大だった地域だ。浅草、下谷、芝(芝浦側)、本所、深川は明治・大正以降の「第二下町」。「第三下町」は荒川区や向島区。そして戦後に人口が増加した城東、王子、江戸川、葛飾、足立の各区は「第四下町」とされている。

 

第一下町の時代、第二下町は郊外の農村、漁村であり場末だった。第二下町ができはじめると第三下町がそれにとってかわり郊外の、場末となった。やがて第三下町ができはじめると、この構図が第四下町へと移動していく。

 

第一下町が近代都市化し、オフィス街になると、昔ながらの下町らしさは第二下町へと移動することとなる。そして第二下町が震災や戦災で破壊されれば、第三下町へと視点は移動していくという著者の指摘は興味深い。

 

やがて1970年代に都心部の近代化、生活様式の西洋化が進むうちに、近代的でも西洋的でもない日本的な伝統の残る下町が珍しがられるようになり下町が「発見」されるに至る。段階を経て生まれた4つの下町は祭りがあって、威勢のいい人たちがいて、気さくで人情味があり、江戸情緒が残る地域、つまり「下町」とひとくくりにされ、しばしば珍重され、愛される、そんな時代がやって来たのだと著者は語る。

 

同じようなことは大正時代にも起きている。明治以降の近代化がひとしきり進んだ1910年代、急速に失われつつある郷土に人々の関心が集まり、「郷土」という言葉が重視された時代があった。ひたすらに外を追い続けていた人々は歩みを止めて、自らの内にあるものを見つめ直すことを求めたのだろう。高度経済成長がピークに達し、暮らしが豊かになり洋風化した1970年代に「下町」が発見されたのは自然の流れだったのかもしれない。

馬場紀衣(ばばいおり)

馬場紀衣(ばばいおり)

文筆家。ライター。東京都出身。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。国内外の大学で哲学、心理学、宗教学といった学問を横断し、帰国。現在は、本やアートを題材にしたコラムやレビューを執筆している。舞踊、演劇、すべての身体表現を愛するライターでもある。
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