ryomiyagi
2021/12/14
ryomiyagi
2021/12/14
薄毛をアピールしていたタレントが、いつしか薄毛でなくなり、これ見よがしにヘアースタイルを変えて見せる。
そんな不思議に気付かされることがある。これは彼の、たゆまぬ努力と育毛剤との相性の問題なのだが、たゆまぬ努力は別として、相性の良い育毛剤に出会えたことが何よりのラッキーに違いない。いや、出会えたこと自体が「たゆまぬ努力の成果」とも言えよう。
初老を迎えて、そんなことにも意識が振れる。
「車のワイパーの代替装置か絶対に効くはげ薬が作れたら、ノーベル賞は間違いない」。
まだ若かりし頃に耳にした。真偽のほどは定かではない。
先日『毛 生命の進化の立役者』(光文社新書)の著者は、理学博士であり、筑波大学下田臨海実験センターで教授を務める稲葉一男氏。
まだ禿頭とはいかないが、すでに「毛」の一文字だけに鋭く反応してしまう。
しかし本書を捲ってみれば、著者がはげ薬研究の進捗を告げるものでも、新たな薄毛対策を教えるものでもないことがすぐにわかる。
『毛 生命の進化の立役者』は、いかに毛が、人類は言うに及ばず、地球上に存在するありとあらゆる生命にとって重要な役割を果たしてきたかを教える、極めてアカデミックな一冊だ。
数ある細胞の中で、体から離れて働くことを運命づけられた細胞は、我々ヒトなどの哺乳類では、精子だけです。細胞にとって、体内は心地のよい環境で、それぞれの細胞はそこで必要な水分や物質を安定的にやり取りしながら、それぞれが担っている役割を果たしていきます。しかし、精子は体の外に出て、体内とはまったく異なる環境に入っていくのです。細胞から見れば、そこは危険に満ちた戦場のような場所と言ってもいいでしょう。そんな場所に放り出されて、メスの卵細胞を目指して命がけで駆け抜けようとするのが精子であり、まさに孤独な戦士です。
この戦士が持つ唯一の武器こそ、細胞の毛である「鞭毛」です。
記憶は定かではないが、いつの頃だか、数えきれないほど多くの精子が、たった一つの卵子をめがけて懸命に泳ぐ映像を見た覚えがある。あの映像の中で、おたまじゃくしのような姿をした精子が盛んに左右していたのが鞭毛なのだろう。数千とも数万ともいわれる(もっと多いのかもしれない)精子の中で、無事に卵子にたどり着き、めでたく受精できるのはたった一つの精子(多胎妊娠などの例外の除く)だということを、その時見た映像のナレーションでも盛んに言っていた。この、人が産まれる以前に繰り広げる、過酷な生存競争を勝ち抜いた孤独な戦士こそが私たちの原点である。
それにしても、そんな風に人の運命を決定づけ、産まれる以前の闘いの趨勢を分ける鞭毛とは何なのか? さらには、そのメカニズムとは? 本書は、これまで「生命の不思議」または「生命の神秘」という便利な言葉で片付けられていた「毛」の正体を解明する一冊であった。
精子のみの運動にたよらず、メスも精子が卵にたどり着くのを助けています。精子は射精されたあと、子宮から卵管に移動します。このとき、メスの生殖器の中の卵管(輸卵管、ファロピウス管とも呼びます)や子宮上皮にある繊毛は、卵や胚の移動のみならず、精子が子宮や卵管に移動するのも助けているのです。
精子が持つ「鞭毛」と、子宮から卵管へと続く「繊毛」。どちらも本書がいう「毛」である。
これら体内及び細胞レベルが持つナノスケールの「毛」の特性とメカニズムを、本書は正しく教えてくれる。
精子の運動は、受精するときに100%活性化するように調節されています。活性化の刺激としては、さまざまなものが知られており、生物によっても異なります。主なものは、カルシウムイオン、ナトリウムイオン、重炭酸イオンなどのイオン類、ph、体温(鳥類)、浸透圧(魚類)、そして種々の化学物質です。
なるほど、これらの条件が揃ったときに精子から伸びた毛や、それを迎える子宮内の繊毛は活発に運動し始めるらしい。それを車に例えるならば、鞭毛はタイヤでありハンドルでもある。そして繊毛は、動く歩道のようなものなのだろう。
しかし、それにしても本書のいう「毛」が、それも決して目には見えないナノスケール(10億分の1メートル)の極微小な内部に、そのようなシステムが組み込まれているとは、人体(というよりは生物の体内・細胞)とは、いったいどれ程精緻な仕組みになっているのだろうか。
鞭毛や繊毛の長さは、ショウジョウバエの精子のように数センチにもなるようなものを除き、精子では30から50マイクロメートル(ミクロン)、上皮細胞の繊毛はその5分の1、10マイクロメートルくらいです。(中略)
その細胞の毛の中に毛を動かすエンジン、すなわち「ダイニン」と呼ばれるタンパク質の分子モーターがずらっと並んで入っているのです。この大きさは10から20ナノメートル。これだけ小さな分子がATP(アデノシン三リン酸)という物質を分解することで得られるエネルギーを用いて、鞭毛や繊毛の中で力を発生し、生き物に欠かせない機能を発揮します。
目では見ることの叶わない、それでも私たちの細胞に備わっている「毛」のシステムとメカニズムを、聞けば聞くほど「生命の神秘・不思議」としかたとえようがない。
加えて本書は、そんな「毛」の卓越した能力を幾つか紹介する。
一つは、「毛」が自らに備わったモーターと制御装置で動くこと。二つ目は、これらの「毛」の構造が、人類とゾウリムシも全く同じであること。三つ目は、これらの「毛」が運動しなくなれば人体(本体? 母体?)そのものが故障をきたすこと。そして最後に、進化の過程において、「毛」にも変異するものが現れ、中には情報を受け取るセンサーとして特化したものがあること。
ヒトを含め脊椎動物では、感覚器が発達しています。感覚器には感覚細胞があり、外部の刺激を受容するために特化した繊毛が存在します。多くの場合、繊毛は運動性を失っています。細長い繊毛で受け取った刺激により、細胞膜の電気的な性質が変わり、それが隣接する神経細胞に伝わっていきます。
神経細胞という言葉は知っている。見る・聞く・嗅ぐ・食べる・触るの5感(+α)を司る細胞と理解していたつもりだったが、間違えていたようだ。明るさ・温度・味・臭いなど、私たちが感じるさまざまな状況や状態は、各感覚器に備わった感覚繊毛によってセンサーされているらしい。
本書は生物が誕生する奇跡を、誰もが知っている精子と卵子が、受精に至るために精子に備わった鞭毛と子宮に備わった繊毛がいかに働き、そこにはいかなるメカニズムが働いているのかを解説してくれる。
頭髪の多寡や色や形状など、体表面の「毛」に一喜一憂する私たちの体内には、一喜一憂では済ませられない、とても大切な無数の「毛」が存在していた。
『毛 生命の進化の立役者』(光文社新書)は、「あ~知ってる」と済ませてしまっていた鞭毛や繊毛の姿や働きを、とてもわかり易く解説し、人体が有する不思議としか言いようのない精緻なメカニズムに対する感謝を増してくれる。
毛 ~生命と進化の立役者
稲葉一男/著
文/森健次
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