学生運動が下火になったのは、大阪万博のおかげだった!?
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万国博の準備期間中は、日本が学生運動に揺れ動いた時代でもあった。一九六八年頃からは全共闘運動が全国の大学に広がり、日本万国博覧会開催の一年二カ月前(六九年一月一八、一九日)には「東大安田講堂事件」が起こった。安田講堂に立てこもった学生たちに対して、大学から依頼を受けた警視庁の警官隊が封鎖解除を行い、多数の学生が逮捕された事件である。

 

大阪でも学生運動が巻き起こっていた。その流れで「反博運動」も起きた。

 

「オリンピックの次に日本万国博が開かれる、これは一九七〇年の日米安全保障条約改定から国民の目を逸らすためのイベントだ」と批判する者もいた。国中が平穏な歓迎ムード一色に包まれていたわけではなかったのである。

 

「大阪城公園で反博デモが起きている」と聞いて行ってみると、もみくちゃにされ、たちまち背広を破られたこともあった。それほど暴力的な運動だった。

 

事態を憂慮した佐藤栄作総理は、ある時、若手官僚を集めて対策を議論させた。その中には当時警察官僚で、のちに評論家として活躍する佐々淳行氏もいた。佐々氏は、「各大学に警察官を常駐させて内偵し、取り締まるべきだ」と述べた。ある文部官僚は、「教授会が持つ権限を理事会に移すべきだ」と主張した。「大学の理事会が権限を持てば取り締まりが容易になる」というのだ。

 

私はといえば、「万国博覧会が近づけば、心配しなくても学生運動はなくなります」と申し上げて、官僚たちの失笑を浴びた。「そんな簡単なものではありませんよ」と諭す人もいた。

しかし、現実は私の予想通りになった。開催一年前になると学生運動は勢いを失っていく。学生たちは革マル派や中核派のヘルメットを脱ぎ、代わりに万国博覧会の建設工事現場で働き始めた。デモに参加していた女子学生が展示館のコンパニオン(当時はホステスと呼んでいた)を目指すようになったからだ。

 

一九六九年三月に募集が開始されたコンパニオンはこの年最大の人気職種になった。当時、女性の憧れの職業の一つだった日本航空や全日空のキャビン・アテンダントへの応募が減ったと言われたほどだ。

 

日本万国博のコンパニオンには内外貴賓の接遇をする「エスコートガイド」、外国人の案内・通訳にあたる「通訳ホステス」、一般客の案内を対応する「ミス万国博」の三種類があり、それぞれ五五人、一五〇人、二三三人が採用された。中でもエスコートガイドの人気は高く、のちの中曽根康弘元総理や竹下登元総理らの娘さんたちもガイドを務めた。英語力を必要とする通訳ホステスの倍率は三〇倍以上の狭き門だった。

 

男子学生は女子学生のいるところに集まるのが常である。また、若者は常に刺激を求めている。それは腹の立つことに向く場合もあるが、面白いことを、より好む人が多い。学生運動よりも万国博のほうが面白い行事だったのである。

 

これはイベントを成そうとする者が肝に銘じておくべき真実だろう。「世間が不況だから」とか、「みんなが沈んでいるから」とか、「政治がもたついているから」とか、イベントをしないほうがいい理由を並べる人は少なくない。けれどもイベントが成功すれば世間は浮き立ち、政治はまとまるのである。

 

過去を振り返ると、一八七八年のパリ万国博覧会は、普仏戦争で惨敗したフランスを先進的な文化大国に押し上げた。一九三三年のシカゴ万国博は世界大不況下で成功をおさめ、翌年からの景気回復をリードした。

 

日本万国博についてはある政府高官が「万国博は警職法(警察官職務執行法)の一〇倍の効果があった」と言ったほどだ。

 

一方で、一般の学生の支持を失った学生運動は過激化・武装化を急速に強めた。日本航空機「よど号」ハイジャック事件を起こした赤軍派グループは北朝鮮に亡命した。万国博が始まって半月ほどの頃であった。

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