2019/01/10
坂爪真吾 NPO法人風テラス理事長
『なぜ人と人は支え合うのか』ちくまプリマー新書
渡辺一史/著
私が20代の頃、地域で自立生活をしている重度身体障害者の男性の介助者として働いたことがある。男性は脳性まひによる四肢麻痺と言語障害があり、自力で歩くことはもちろん、食事をすることもトイレに行くこともできない。24時間体制で介助者やヘルパーの力を借りて生活している。
泊まり込みでの就寝介助をはじめ、生協に注文する品物を一緒に選んだり、ネットサーフィンやSNSのゲームの介助をしたり、旅行の付き添いをすることもあった。
男性の親族が亡くなった際、病院まで車で送迎したこともあり、生活介助とは文字通り本人と生活の苦楽を共にすることだと実感した。
男性は喫煙者だったので、喫煙の介助も行った。言うまでもなく、タバコは健康に悪い。私自身もタバコは苦手である。しかし、だからといって介助を断ることもできない。煙草を男性の口にくわえさせて、ライターで火をつける。吸い終わったら、灰皿に落として確実に消火する。
深夜の介助の際は、「性の介助」も行った。直接的な行為を行うわけではなく、男性の指示に従ってテレビのチャンネルをアダルト専門に変える。翌朝、朝一番の女性ヘルパーが来る前にチャンネルを元に戻す。
いずれの介助にも正解は無い。教科書もガイドラインも無い。本人と介助者が、お互いの立場や考えを率直に話しあった上で、誰がどこまでやるかを決めていくしかない。
そうした障害者との出会いと交流、ぶつかり合いの中から、「福祉とは何か」「障がい者が生きやすい社会とは何か」といった問いに対する答えが、おぼろげながら見えてくる。
本書『人と人が支え合うこと』には、著者の渡辺氏をはじめ、「あの障害者に出会わなければ、今の私は無かった」と語る人たちの濃密なエピソードが描かれている。
一人の障害者との出会いが、世界観や人生そのものを変えるような体験になる場合がある。そうした体験を発信していくことこそが、障害者の存在や生命を軽視するような風潮に対するカウンターになることは間違いない。
一方で、「人と人が支え合うこと」によって生じるのは、お互いを高め合う・満たし合うような「正の支え合い」だけではない。お互いの悪意を肯定・増幅し合うような「負の支え合い」もある。
介助の現場でも、タバコ介助や性介助のように本人や介助者にとって負担になる可能性のある行為だけではなく、「違法行為の介助」をダイレクトに要求される場合がある。
幸いにも私はそのような体験をしたことは一度も無かったが、万引きや詐欺行為、ネット上での誹謗中傷、盗撮や著作権侵害、危険運転などを介助者に指示する障害者は、実際に存在する。そして断り切れずに、あるいは「障害者の権利擁護」という「正義」のために、違法行為に手を貸す介助者も存在する。
「人と人が支え合うこと」が広まっていくにつれて、加害者になる障害者や介助者、そして彼らの被害者は増えていく。罪を犯した障害者をどう社会的に包摂するかという問題については、既に多くの専門家や団体が取り組んでおり、様々な議論と実践がなされている。
自分の大切な人が障害者とその介助者によって危害を加えられた時、私たちはどこまで平静でいられるだろうか。「あの障害者にさえ出会わなければ」という悔恨に襲われた時、安易な障害者叩きに加担せずにいられるだろうか。「社会的包摂」や「共生社会」といった言葉を、どこまで信じることができるだろうか。
「人と人が支え合うこと」が広まった後に見えてくる景色は、決してバラ色ではない。マイノリティの権利擁護や社会参加が一定の水準を超えた後にこそ、当事者にとっても非当事者にとっても、そして社会全体にとっても、「人と人が支え合うこと」とは一体何なのか、が真に問われる時が訪れるはずだ。
本書は、来たるべきその時に備えるための手引書になってくれるだろう。
『なぜ人と人は支え合うのか』ちくまプリマー新書
渡辺一史/著