シナリオの周到さは「あの映画」並み!? 哲学的ゾンビをやっつける『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』

一ノ瀬翔太 編集者

『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』勁草書房
鈴木貴之/著

 

ポンカンの「この感じ」はどこから?

 

「うー」
青年が両手を前に突き出し、唸り声をあげながら女の子に向かっていく。
「けんちゃん……やめてー!」
けんちゃん、静止。
と思ったら5秒後にまた動きだす。
「うー」
女の子の喉元ガブっ。
「けん…ちゃん」
女の子ガクっ。

 

昨年の邦画シーンを席巻した「カメラを止めるな!」は、こうした場面から幕を開ける(記憶で書いているが、たしかこんな感じ)。このけんちゃん、いわゆる「ゾンビ」である。人間を襲うだけの存在となりはて、もはや心を持たない。ゾンビ化する前のけんちゃんと親しかった女の子がいくら泣き叫んだところで、意思疎通は不可能だ。

 

哲学の世界にも、ゾンビが徘徊している。その名も哲学的ゾンビという。普通の人間とまったく同じように挙動し、同一の脳状態を持つ。にもかかわらず、一切のクオリアを持たない存在。

 

クオリアとは何か? 私たちの意識経験にともなう「あの感じ」である。赤い色の「赤さ」、痛みの「痛さ」等々。物理的な脳からどのようにしてクオリアが生まれるのかという問題は「意識のハード・プロブレム」と呼ばれる。この難問を解かない限り、哲学的ゾンビは私たちをどこまでも追いかけてくる。お前らの科学じゃ意識は解明できないよ、と笑いながら。

 

「ウォーキング・デッド」などを見るに、ゾンビの急所は脳天だ。ゾンビの脳天を拳銃で打ち抜いたり、斧を振り下ろしたりすると、やつらは二度と動かなくなる。哲学的ゾンビの場合、狙うべきはクオリアである。クオリアを物理現象として説明(自然化)し、神秘のベールをはぎ取ること。これこそが、本書『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』の目論見だ。

 

そのために、本書は武器を錬成する。「ミニマルな表象理論」という武器だ。表象とは、「何かほかのものを表す働きをもつもの」のこと。たとえば、「テーブルの上に赤いリンゴがある」という文は、テーブルの上にあるリンゴの表象である。これと同様に、意識は世界のあり方を表象する。ただし、両者には大きな違いがある。前者が「派生的表象」である(文は、人間の意図という別の表象にもとづいて利用される)のに対し、後者は「本来的表象」である(私の知覚状態は、ほかの人の心的状態などに媒介されることなく、それ自体として私の行動に利用される)。

 

本来的表象は、生物の神経系において、感覚入力と行動出力を媒介する内部状態である、そしてそれは、追加の条件を必要とせずに(ミニマルに)意識体験となるのだ。「ある生物が本来的表象を持つことは、その生物の神経系の構造や行動にもとづいて、物理主義的に理解できる事実だ。そのような生物が、世界をある仕方で分節し、それにもとづいて行動するとき、その生物は、対象の物理的な性質には還元不可能な性質を経験する」。

 

つまり、クオリアを何らかの物理的性質に還元するのではなく、物理主義の必然的な帰結として、クオリアに独自の身分を与える。これが本書の最大のポイントだろう。ある意味シンプルな結論だが、ここに行きつくまでの道のりに本書の醍醐味がある。あらゆる可能性を念入りに検討していくそのプロセスには、一種の中毒性があるように思う。「カメラを止めるな!」がツイストの効いた巧みな脚本で観客を興奮の渦に巻き込んだように、本書のシナリオも相当に周到だ。

 

さて、これでゾンビを倒せるだろうか? 本書を読んで、その結末をしかと見届けていただきたい。

 

 

『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』勁草書房
鈴木貴之/著

この記事を書いた人

一ノ瀬翔太

-ichinose-shota-

編集者

1992年生まれ。東京大学教育学部を卒業したのち早川書房に入社し、現在ノンフィクション書籍の編集者。担当書にマイケル・ウォルフ『炎と怒り』、スティーブン・スローマンほか『知ってるつもり』、岡本裕一朗『答えのない世界に立ち向かう哲学講座』、アジェイ・アグラワルほか『予測マシンの世紀』など。


・Twitter:@shotichin

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