2019/11/08
藤井誠二 ノンフィクションライター
『閑な読書人』晶文社
荻原魚雷/著
著者の荻原魚雷さんに邂逅したのはもう20年以上前のことで、私が小学館の漫画編集部に出入りしていた頃だ。
いまは京都精華大学で教鞭をとっている西田真二郎さん(当時はフリーライター・エディター)の紹介で、荻原さんが一冊目の『古本暮らし』(2007年)を出す前、たぶん大学を中退してフリーライターになったばかりのときに会ったはずだ。
荻原さんは私の四歳下で、書生といったかんじの人でどこか浮世離れした印象を受けた。当時のライター連中はぎらぎらしていている連中が多かったから、彼は今でいう「草色系」の走りといえばいいのか、我欲が感じられない人という印象だった。それきり会ってない。
過日、名古屋のブックカフェとホテルを足して二で割ったようなちいさなホテルに泊まり、朝、珈琲を飲みながら一階の本棚を眺めていたら荻原さんの『閑な読書人』が目についた。
その棚は「読書の勧め」みたいな棚作りで、いわゆる読書の達人の著書が並んでいた。といっても、いま流行りの速読が自己啓発につながるというような本はなかったので安心して眺められた。
私はすぐに荻原さんの本を手にとってカウンターに座った。読み進めるうちに荻原さんの変わらなさぶりに安心して、うれしくなった。相変わらず質素倹約な生活をして古本屋を巡っていた。
仕事まで時間があったから半分を読み、ホテルに戻ってからまた半分を読んだ。この本の出だしはこんな文章から始まる。
ずっと隠居にあこがれたいた。できることなら、浮世離れした人間になりたかった。世の中の決め事がよくわからず、どこに行っても、場違いな、居心地のわるいおもいをしてきた。周囲からは、おとなしそうな人だとおもわれている。おとなしそうに見えて、不義理かつ不精だから、よく怒られる。
いまでいうと「ダメ人間」なんていわれちゃうのだろうか。この一冊はいわば書評集なのだが、著者は有名無名にかぎらず、一般的な世の中とそりがあわず、まさに浮世離れして、たぶん周囲からは変人と思われたり、言われている人たちばっかりなのだろう、自分のペースで生きている人が書いた本や文章ばかり。
そういう人たちの独自の「生き方」をあらわした言葉はなぜか安心する。
荻原さんはあまり陽が当たることがなかった人々も含め、古今東西の「枯れた言葉」を落穂拾いのように集めていて、古本の蒐集家である。それが荻原さんの世過ぎ見過ぎにもなっている。
荻原さんがよれよれと古本屋と自宅と居酒屋をまわる風景が目に浮かんでくる。なるべくインターネットを使わず、黴臭い古本屋の棚を仰視する愉楽。欲しかった本を見つけたときの悦び。
なぜ荻原さんの本を読むと安心するのだろう。ほんとうはぼくも「そっち側」の人間なのに、これまでずいぶんと無理をしてきたのかもしれないなあと思う。
新刊書店の棚はやたらと「がんばり」を賞賛する自己啓発本ばかりであり、生活の無駄を排除することを勧める本だらけだ。荻原さんの本はこれら今どきの本の群と対極にある。だから頁をめくりながら「そうだよなあ」とつぶやいてしまう。
本にたいする感度も波がある。自分が探している本が何かわからなくなるときがある。「カチリとしたもの」は、自分の状態にも左右される。どんなにおもしろい本でも、自分の調子がだめなときはピンとこない。おそらく「カチリとしたもの」に出くわす頻度が落ちているときは、余裕がない兆候なのかもしれない。
読書家の荻原さんのいう言葉はそのとおりなのかもしれない。ぼくの仕事場にはふだんは仕事絡みで読まなければならない本が山積みになっていて溜め息しか出ないのだが、たまたまホテルのカフェで見かけた荻原さんの本がカチリとした。
カチリという音でもしたかのようだ。20年ぶりに出合った荻原さんの文章をおもしろくて仕方がなく、彼の紹介する他者の言葉やエピソードがスっと入ってくるぼくの「現在」とはどんなものなのだろう。
『古本暮らし』は本棚のどこかにあったはずだが、それ以降の荻原さんの本は持っていなかったので『日常学事始』や『書生の処世』、『本と怠け者』、『活字と自活』も古本で書い求めた。ただしインターネットを使ったけれど。
『閑な読書人』晶文社
荻原魚雷/著