2019/12/09
吉村博光 HONZレビュアー
『聖なるズー』集英社
濱野ちひろ/著
『聖なるズー』という書名をみて、何について書かれた本かピンとこなかった。長いタイトルの本が増えている昨今、いさぎよい書名ではある。次に目に飛び込んできたのは、オビにある「2019年開高健ノンフィクション賞受賞」の文字。そして犬の写真だった。
内容紹介文によると、本書はドイツの動物性愛者(=ズー)を取材したノンフィクションらしい。私は、動物性愛ときいて、すぐに性的倒錯とか獣姦という言葉が頭に浮かんだ。でも、“聖なる”という冠がついているのはどうしてだろう。
最初、ズーときいて抱いた感覚は、本書を読んで偏見だとわかった。偏見に満ちた日常を見直すキッカケを与えてくれる、素晴らしい本だ。テーマも刺激的で、きっとこれから話題になるだろう。
ドイツには、動物性愛者のZETA(ゼータ)という団体がある。日本では、考えられないことかもしれない。著者が取材を行ったのは、主にその団体に属するズーたちに対してである。単身ドイツに乗り込んで、彼らと寝食を共にして取材した骨太なノンフィクションだ。
そもそも動物性愛とは、動物を愛し、時には性行為をすることもある人々のことだ。性行為が前提で、暴力的な行為をも含む獣姦とは異なるものである。ズーたちと動物とのセックスは次のようなタイミングで自然に始まるらしい。本書から、いくつか引用する
「オス犬は、たいていご飯を食べたあとにセックスしたがるんだよ」
「僕の周りをくるくる回って、しようしようと表現するんだ」
ズーたちが異口同音に言うのは「動物からセックスを求めてくる」というものだ。犬や馬は、私たちにとっても身近な動物だから、勃起した牡馬の性器だったり、去勢前の犬が腰を振ったりするのを目にすることはあるだろう。しかし、多くの人はそれを笑い飛ばすのではないか。
それをシリアスに受け止め、彼らの欲求を受け止めようとするのが、ズーなのである。彼らのセクシュアリティへの目覚めの形は実に様々だ。例えば、実名でゼータの活動を行っているミヒャエルという男性は、13歳の頃、近所のオス犬に指を舐められた時に衝撃が走ったそうだ。
「身体的にも感情的にも何かが爆発するのを感じた」
「泣きそうで、息がぜえぜえ上がった。」
そして、勃起したそうなのだ。彼は、普通じゃない自分に悩み、セックスワーカーに相談し、人間の女性と結婚したそうだ。そして、“義務として”セックスしたとも言っている。
確かに、人間同士のセックスには、様々な意味が付加される。大好きな動物に求められ、自然に事に及ぶセックスのほうが純粋だという見方もできるかもしれない。一般的には、動物とのセックスは性的な快感は低くても、満たされている気分は人間より上のようである。
そこには、支配・被支配という関係性を覆す瞬間であったり、愛とセックス(精神的快感と肉体的快感)の純粋な意味での統一だったり、ズーたちにしか味わえない満たされた時間があるように思った。
著者が取材のために話をきいたズーたちは、20人以上。インタビュー然とした接触では、真実に迫れないと感じ、ズーたちの家を泊まり歩いて空間を共にした。そうして築いた信頼関係なくしては知りえない事実が、本書にはふんだんに詰まっている。
もうひとつ触れておきたいのは、本書が興味本位の内容でもなく、
長年、性暴力を受けてきた経験を持つ著者は、それを乗り越えるために苦闘してきた。その視点から生まれるズーたちとの会話には、余人では作れない空気感がある。読者は、いつしか著者と伴走し、
その度に、常識の膜に穴があき、頭の中に新鮮な空気が流れ込むのを感じる。そこには、驚きや拒絶や混乱が伴うのは間違いないが、そもそも、ノンフィクションを読む意義の一つはそういうところにあるのだと思えば、やはり、本書は傑作だといえる。
「ズーの話はセックスの話だと、みんな考える。けれども、本当はそうじゃない。動物や世界との関係性の問題なんだ」
ねずみの群れと生活する、あるズーはこのように語っている。動物性愛の真実を知ろうとすること。その先に何があるか。いま私の目の前には、「多様性」や「違い」という言葉が吹っ飛び、平たいところにバラバラに横たわっている。読後、あなたは何を見るのだろうか。
『聖なるズー』集英社
濱野ちひろ/著