2019/12/10
るな 元書店員の書評ライター
『言壺』早川書房
神林長平/著
私はあなたを殺したいほど愛していた。
二人きりで眠りにつく夜。
点、改行。
世界が終わって幸せの中で死にたいと思った。
うん、やっぱりこうでないと。
スマホに向かって一人でブツブツ喋る。
入力するのが面倒な時は私は音声で入力する。そうすると、勝手にスマホが文字を認識して恐らくそうであろうという漢字に変換してくれる。
難点もある。
この認識に双方の食い違いがある場合、例えば双方が奏法になることも多い。突然音楽家の話になってしまうから修正が二度手間。
それから、やはり文章は手で書いた方が良い。頭の中に浮かんだ言葉たちを文章にして、頭から手、手から形ある文字にする時にそれらはきっちりと学校で学んだ文章に修正されている。
喉渇いたなぁ→私は喉が渇いていた。みたいな感じ。
「喉渇いた」からは何の物語も始まらないけど、
私は喉が渇いていた
から始まる小説があれば、もしかするとこの後殺人事件が起こるかもしれない気がする。
私はSNS媒体で文章による感想を書き始めてやっと納得した。
文字に起こすのにはイマジネーションが必要だ。
神林長平による言語との戦闘小説。
9つの物語、連作かなと途中で思う。ワーカムという次世代ワープロを使う作家の話。いわゆる電装作家だ。ワーカムは入力された文章に対して、それであってる?なんでそうなの?といちいち聞いてくる。
これは面倒くさい。私が今書いている文章に対して、なんで面倒くさいの?って聞かれるんでしょ? また、辻褄の合わない文章に自動修正がかかり、修正できない文章は書く事ができない。
文中では、
私を生んだのは姉だった。
彼女は蛾のように美しかった。
が自動修正されてしまう。
当然人間は姉ではなく母から生まれるし、蛾は一般的に美しいものではない。
しかし、この文章の辻褄の合わなさやそのひずみの中にある人間の思いをその思いのまま表現したい時は? 彼女は蝶のように正当に美しいのではない。蛾のような醜さが沈殿した後に見えてくる澄んだ水のような美しさだったら? ワーカムを使うとそれを表現する事は叶わない。
作家は抗い続け、勝利したか?の瞬間、世界が変わっていた。
…わお。
次の物語へ行くにつれ、作家がただの売れない電装作家ではなくなっていく。
最後の「乱文」で句点のない文章が一気に押し寄せてきて、ラストに一言。
この本は終わる。
この一言でうーむ。としばらく考える羽目になった。
本来ならきっと、この本はポスト構造主義に戦いを挑んだ本でね、ポスト構造主義ってのはあらゆるイデオロギーを言葉で解体していくものでさ。と話すのがワーカム的にはいいのだと思うけど、残念、私もワーカム的な文章は書きたくない。
神林長平は言葉と戯れて戦ってきた作家だと思う。私は彼の書く小説がどれもこれも好きなのだけど、その気持ちは、彼が戦うことで生まれた神林語に感染している1つのファイルのような気持ちだと思っている。その理由が垣間見える文章を本文の中に見つけた。
電装の二文字のつかないただの作家のやっていることを突き詰めてみれば、文字と戯れること。
だから読者もまず文字と戯れるべきであって、論理矛盾があるなどと指摘する人間は文字で書かれた言葉で遊ぶ能力が欠けているのだ。単語がパズル片だとすれば、それが組み合わされてできる言語空間が何やらめちゃくちゃな抽象的なものであっても構わない。
ワーカムが提供する言語空間にそれはない。
私がこうやって長ったらしく書く事もできやしないし、自分の思いがなるべくそのままで伝わるようにと頭をひねる事も出来ない。
きっと要約されて矛盾を指摘され、スッキリさっぱりした文章に自動修正される。
しかしそれは私が書いたものであってそうではない。
私はあなたを殺したいほど愛しているし幸せの絶頂で死にたいと思っている。そう書きたい。そのまま書きたい。
言葉が私の主人になっちゃいかん。
言葉に命を吹き込むのはいつも私。
神林さん、ラストはマルチエンディングでお願い。
『言壺』早川書房
神林長平/著