2020/05/28
吉村博光 HONZレビュアー
『「働き方」の教科書』新潮社
出口治明/著
25年間勤めた会社を辞めたとき、私はこう挨拶してまわった。「今後70歳まで働くことを念頭に、新たなスタートを切ります。50歳は人生の折り返し地点ですから」本書の著者である、出口治明氏の次のような考え方を参考にさせていただいたのである。
成人して自分の力で人生を生きる期間は20歳から85歳までの65年間ということになります。65年を半分にすると約30年、20歳に30年を加えると50歳になるという計算です。 ~本書「序章」より
挨拶すると「実は、転職が決まってんじゃないの?」と訊かれた。「でも、会社勤めでは70歳まで働かせてもらえないヨ」と、私は笑って返した。一旦立ち止まり「これからの仕事」を考え抜いて決め、「強い思い」をもって挑戦したいのである。
著者は還暦を過ぎてライフネット生命を開業していて、本書では50代の起業を推奨する。若者に比べて体力は劣るが、他のリソースは圧倒的に有利で、まだ人生の折り返し地点だから時間も十分にある。また、人生の終わりにむけて、次のような観点もあるという。
50歳を迎えたとき、それからの人生をどう生きていけばいいのでしょうか。
もちろん、人生は人それぞれに異なるので、その過ごし方は自分で突き詰めて考えていくしか方法はありませんが、僕がひとまず決めているのは「悔いなし、遺産なし」の人生を送ることです。 ~本書「序章」より
老後資金のことなど、50代は心配事で雁字搦めの印象がある。しかし著者は、折り返し地点からの「悔いなし、遺産なしの人生」を掲げているのだ。しかもそれは、生命保険の専門家の言葉なのである。最高に心強くて、なんとも爽快な話ではないか!
ただそのためには、50代までの「働き方」が重要のようだ。本書では「50代になったら何をするか」の前に「20代の人に伝えたいこと」「30代、40代のうちにやっておくべきこと」と年代順にまとめられている。そしてその前の冒頭には、ゼロベースの仕事論がある。
私が読んできた仕事論の多くは大前提として「従来型の成功」があり、それが嫌だった。でも、本書は違う。ゼロベースなのだ。数年前に初めて本書を読んだとき、その点に慄然とし、哲学や歴史への造詣も深い著者の笑顔を思い、自分の人生を変えたいと思った。
ゼロベースというのは、例えば第1章の最初の見出しが“人間は動物である”ということだ。「最も大切なことは生きるために食べることと、外敵から襲われることなく安心して眠るねぐらを確保すること」と、人間が動物として最低限目指すべきものを結論づけている。
そのうえで、人間の能力差について「人間チョボチョボ論」を展開。故事なども紹介しながら、大きな差がないのならあとは気持ちの持ち方次第だと書いている。また、人生の99%は失敗なので、クヨクヨしたり、他人の評価を気にすることを戒める。
いま私は第1章をたった二つのパラグラフでまとめたが、この文章で背中を押される人はいないだろう。しかし本書では、豊富な知識に基づいた適切な比喩が入るので、読者はいつの間にかスッと肩の力が抜けて、滋養溢れる優しい料理を食べたような気分になる。
続く第2章は、人生に占める仕事の時間は3割弱でしかなく、残りの7割強の時間が大事だと説いている。退職後の私の予定は、コロナによる休校のため変更を余儀なくされた。しかし、本書の原則に従えば、いまは子供たちとの時間を優先すべきだとわかる。
ゼロベースの仕事論から始まって、20代~50代の働き方を提案。その後、今後30年の世界を展望して、最後に今後をどのような計画で過ごせばいいのかまとめあげる。終章は「世界経営計画のサブシステムを担って生きる」だ。そこから、言葉を引用したい。
世界はこうなっていて、そのなかのどこが嫌で、その嫌なことを変えるために自分は何ができるのかということを整理すれば「強い思い」を描き出せると思います。
周囲の世界をよく見たうえで、何かを変えたいと強い欲求を覚えることは、世界を自分の思うとおりに経営したいという感覚を持っていることに他なりません。 ~本書「終章」より
長い思考の末、私は必ずやこの「強い思い」を描き出すだろう。その結果、何をすることになるのか。分野は、人口動態や社会状況で左右されるだろう。本書にもいくつか示唆があった。そして仕事は、自分の能力や内発的な動機の見極めが重要に違いない。
「世界経営計画のサブシステムを担って生きる」という言葉は、著者独特の表現だ。壮大で、かつ夢がある。でもじつは身近なことだ。誰しも「世界をこうしたい」と思ったことはあるだろう。この点について著者は、田舎のおばさんの行動を例に挙げて説明している。
僕の育った田舎に、毎朝、道を掃除しているおばさんがいました。村中の道を掃除することはできないので、おばさんは向こう三軒両隣の道を掃いていました。 ~本書「終章」より
道が汚れているのを「嫌だ」と思ったおばさんが、その状況を変えたいという世界経営計画を立てて(「強い思い」で)可能な範囲で三軒両隣を掃除するサブシステムを担っているのだ。こう考えれば、私にも「悔いなし、遺産なし」の人生が送れそうに思う。
安心して赤ちゃんを産める社会に変えるために生命保険会社を作る、という著者のようなスケールは私には無理かもしれない。でも大切なのは、同様のベクトルで新たなスタートを切り、一歩一歩前に進んでいるという実感を得ることである。
『「働き方」の教科書』新潮社
出口治明/著