2020/06/03
青柳 将人 文教堂 教室事業部 ブックトレーニンググループ
『たまご 他5篇 光用千春作品集』小学館
光用千春/著
世の中がフィクションのように日毎に目まぐるしく変化していく中でも、人として最低限以上の生活の営みは繰り返していかなければならない。その中で小さなストレスが積み重なって、突然大きな声で叫びだしたくなったり、物や人に対して感情をぶつけたくなったりしてしまうこともあるかもしれない。
外的な要因は大きく違えども、その感情や心の動きは決して特殊な感情ではなくて、原体験として子供の頃から心の片隅に抑えこみ続けていた感情にも似通っているような気もする。どこか懐かしさも感じなくもない。
子供の頃は、多くの悩みや不安を抱えていた気がする。それは大人になった今では何でそんな些細なことで悩んでいたのだろうと思うような小さな世界の中での物事だったり、反対に大人になった今では想像もできない位の果てしない物語が拡がっていたりするものだ。
光用千春のデビュー作『コスモス』は、そんな子供の頃に上手く言葉にして表現できなかった感情を思い出させてくれた。
最新の単行本『たまご』は、小学館新人コミック大賞で漫画家の業田良家氏、石塚真一氏等の審査員に絶賛された表題作を含めた初の短編集だ。
『たまご』は、工場に勤務しながら文芸賞に作品を投稿して作家になることを夢見ている女性の、職場での人間関係への気遣いや、将来への不安を淡々と描いている。
他にも、思春期の娘と母親との軋轢を描いた『エリコとカナコ』や、妙齢の女性特有のストレスや葛藤をさりげない会話の中で巧みに描く『前後左右へ』、母親から部屋の外に出ることを許されず軟禁されている少年を描いた『星に願いを』等、どの作品の登場人物も、現代社会を不器用ながらも自分なりの処世術を駆使してなんとか生きている。そんな彼等の姿に、自分自身や今までに出会ってきた人たちを重ね合わせてしまう。
著者は静謐なる日常を描いていく中で、時には1ページ全てを用いてダイナミックに描いたり、時間の流れをカメラのフィルムのように連続したコマ割りの中で描写したりと、漫画の既成概念に囚われずに、のびのびと心の機微を表現していく。
その表現方法の中で特に注目したいのが、コマ割りの中に台詞を発した本人が登場しないという表現方法だ。本人不在のコマ割りの中で置いていかれた言葉は、表情や身振り手振りの行動が見えないことにより、これから起こり得るかもしれない様々な予感を掻き立ててくれる。
どうして著者は、言葉では表現することが難しい感情を、短い物語の中でさらりと自然体に描くことができるのだろうか。
集団生活の中で構築されていく複雑な人間関係を通して、現代社会の生きづらさって一体何なのだろうという、漠然とした言葉では上手く言い表せない感情を、主観だけではなく、性別の垣根なく幅広い世代の声を感受でき懐の広さを持っているのかもしれない。そしてきっと、この永遠に答えの出ない悩みや葛藤を抱えながら、これからも等身大の人々に焦点を合わせた作品を描き続けていくのだろう。
「漫画」という枠組みに押し込めるのが勿体ない位に文学的で、これからどんな作品を描いていくのかが楽しみな作家が誕生したことに、読書人の片隅に生きる者として喜びを隠さずにいられない。
『たまご 他5篇 光用千春作品集』小学館
光用千春/著