2020/12/12
三砂慶明 「読書室」主宰
『三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾』CCCメディアハウス
近藤康太郎/著
本を読んでいると途中で、いま、自分が決定的な出会いをしていると気づかされることがよくあります。読む前と読んだ後では世界観がかわっている。そういう本です。私の場合、そういう本は読もうと思って選んだ本ではなくて、本屋の店頭でたまたま手にとったり、友人からすすめられたり、探している本の隣にありました。
近藤康太郎の『「あらすじ」だけで人生の意味が全部わかる世界の古典13』と出会えたのも友人のおかげでした。私は要約ものを極力読まないようにしていたので、友人からすすめられなければ、確実にこの本を手に取ることはありませんでした。
タイトルを見て、古典のあらすじを知れば人生がわかる、みたいな内容だと勘違いしていました。読みはじめたら全然違う。
寸暇をおしんで、新聞記者の仕事の合間に、古典を読んで、読んで、読みまくる。折り合いの悪かった父親が借金まみれになり、金策に走り、何度も修羅場を経験しながら、道を踏み外さなかったのは、古典の力だと、はっきりいいきる力強さ。
古典は、図書館の片隅に眠っている暗くて分厚い本ではなくて、燦然と輝く太陽なんだということを、自分の人生に引き寄せて、これでもか、という具合に書きつらねていく。
どれだけ人生が辛くて、厳しくて、救いがなかったとしても、私たちには古典があるという読書の福音にはしびれました。
白眉は、トルストイの『戦争と平和』の読み方です。近藤康太郎は、『戦争と平和』を、出世の意味と人生の目的を切り口で、読み進めていくのです。こんな話だったっけ? あわてて読み直しました。
恥ずかしい話ですが、私は出世したいと漠然と考えていました。だから、同期の出世が気になって仕方ありませんでした。でも、一体、何のために出世したいと思っていたのか。考えてみると、よくわかりませんでした。その答えが、『戦争と平和』に書いてあるというのです。
近藤康太郎は、トルストイの言葉を借りて、
「人間のあらゆる努力とは、自由を増やそうとする努力にほかならない」と述べています。
「富―貧、名声―無名、権勢―服従、強大―無力、健康―病弱、教養−無知、労働―無為、飽食―飢餓、善行―悪行、これらは単に自由の程度の大小に過ぎない。」
金持ちか貧乏か、有名か無名か、この違いは単に自由の程度に過ぎないと言われて、思わず声がでました。私が出世して欲しかったものが、ここに書いてありました。小さな自由だったのです。自分がなぜ出世したかったのが明確にわかり、なんだ、その程度のことで十年ちかく悩んでいたのか、と自分の小ささにがっかりしました。
でも、おかげで出世が、自分には必要でないことがわかって、生きるのが少し楽になりました。
と同時に、近藤康太郎の本を手当たり次第に読みはじめました。
デビュー作の『リアルロック』から、資本主義に対する強烈な異議申し立てを実践するオルタナティブな生き方『おいしい資本主義』『アロハで猟師、はじめました』を食い入るように読みました。
感動したのは、近藤康太郎の作り方を、惜しげもなく公開した『三行で撃つ〈書く、生きる〉ための文章塾』です。
この本をかいつまんでいえば、朝日新聞随一の名文記者が、文章の書き方を25のテーマで書き下ろした文章術の本ですが、もちろん、それだけではありません。
ふつうの文章術の本と違うのは、まず、言葉とは何か、の本質が記されていることです。
「言葉は、自分の考え、感情を表す道具ではない。むしろ言葉が、自分の思想や感情を生起させる。順番が逆なのだ。だから、世間で流行している言葉を使うということは、自分のマインドとハートとを、世間に売り渡すことなのだ。」
私たちは当たり前のように、目の前の世界を自分で見ているような気がしていますが、近藤康太郎によれば、見ていない。誰かの言葉で、読み、書き、話している限り、自分の頭で世界を捉えることはできないのだといいます。
「この本、やばい」ではダメなのです。この本を私がどう感じたかを、私の言葉で書かなければ、書いたことにはならないのです。
常套句やオノマトペをつかわずに、たとえば、「美しい」という言葉を使わずに美しさを表現できるようになったとき、私たちははじめて、自分の頭で世界を見られるようになるのだというのです
「言葉にならない感情、言葉に落とせない思想は、存在しない。言葉にならないのではない。はなから感じていないし、考えてさえいないのだ。」
生きることは、すなわち、書くことであり、書くことは読むことと密接につながっている。だから読書は素晴らしい。最高じゃないですか?
この本を20歳のときに読んでいたら、確実に人生がかわっていました。
読書人の聖書だと思います。
『三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾』CCCメディアハウス
近藤康太郎/著