現代人に問う。今、古典文学を読む意味とは?

馬場紀衣 文筆家・ライター

『文学こそ最高の教養である』光文社
駒井稔/著

 

 

堅苦しいギリシア哲学や難解なロシア文学、プルーストのあきれるほど長い小説よりも、お手軽で、もっと読みやすい作品はたくさんある、というのは正直なところ事実だと思う。刺激的でたくさんの娯楽に囲まれながら、それでも今、古典を読む意味とはなんだろう。

 

本書は、紀伊國屋書店新宿本店で続く大人気イベントを書籍化したもの。敷居が高いと思われがちな古典文学作品に新時代の居場所を与えるために「光文社古典新訳文庫」を立ち上げた著者が、その道の名翻訳者たち14人にさまざまな質問を投げかけて引き出した話をそのまま、訳しようのない本音や裏話を交えて、紹介している。

 

この臨場感がまず魅力。新訳された古典文学について名翻訳者の口から直接話が聞けるなんて、古典文学好きにはもうたまらない。

 

本書によると、20世紀文学の最高峰といわれる「失われた時を求めて」を書いたマルセル・プルーストが日本ではじめて紹介されたのは1922年のこと。プルーストが亡くなった翌年だった。死の直前、ガリマール出版社から出ている文学雑誌に第五篇「囚われの女」に含まれるエピソードの一つを「朝日新聞」の特派員だった重徳泗水が日本に紹介したのだ。それが1923年、プルーストが亡くなってまだ4、5カ月しか経っていないときのことだったというから驚きだ。「彼女の眠」と訳されたこの作品は、与謝野晶子と鉄幹が主宰していた「明星」に掲載され、日本人の知るところとなった。

 

ここからは裏話。このとき紹介された「彼女の眠」では、最初のほうに出てくる女性、アルベルチーヌの名前がジゼルという名前に変わっているらしい。ほかにも数行目の「バルベーク湾」のところには「シリアの地名」と注があるらしいのだが、これは重徳泗水が「バルベック」を架空の地名と知らなかったために起こったミスだとか。これが、日本人の読者が初めて触れたプルーストだ。

 

また別の対話では、ロシアを代表する作家ナボコフを取り上げながら、難解さを味として残しつつも読者に分かりやすく翻訳することの難しさについてが語られる。また別の話では、言い方や言葉自体がもっている面白さ、言葉のリズムを活かして日本語に乗せていく翻訳者の手腕について。

 

ほかにも、フローベール、トーマス・マン、ショーペンハウアー、メルヴィル…名翻訳者たちと著者のとめどない語りがいくらでも続いていく。しかも登場する14人の翻訳者たちは、あたり前だが作品をくまなく読み込んでいる。翻訳のスペシャリストであり、ひとりの読者でもある。翻訳者自身も作品を楽しんでいるのが伝わってくるのである。

 

それにしても、わざわざ全14巻もあるプルーストの作品を読む理由はなんだろう。難しいナボコフを読む理由とは。よく言われるように、古典文学があまり読まれなくなったのは古臭い人物像のせいなのか。あるいは古典というものが今の時代に場所を見つけられなくなったのが理由なのか。

 

とするのなら、読むことのできる古典を目指して創刊された「光文社古典新訳文庫」はこれまであまり古典文学に親しみを感じられずにいた読者にこそ、うってつけかもしれない。なぜなら、今も昔も人間の本性はなにも変わっていないのだから。著者も言うように「(文学世界の)登場人物も作者も私たちと同じような隣人」なのだ。

 

『文学こそ最高の教養である』光文社
駒井稔/著

この記事を書いた人

馬場紀衣

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文筆家・ライター

東京都出身。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。国内外の大学で哲学、心理学、宗教学といった学問を横断し、帰国。現在は、本やアートを題材にしたコラムやレビューを執筆している。舞踊、演劇、すべての身体表現を愛するライターでもある。

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