2021/02/15
馬場紀衣 文筆家・ライター
『ルカス・クラーナハ 流行服を纏った聖女たちの誘惑』八坂書房
著/伊藤直子
北方ルネサンスの巨匠、ルカス・クラーナハ(父1472年~1533年)といえば、どうしたって妖艶な女性たちを思いだす。足と手の均整のとれた佇まい、もの言いたげな小さくて丸い顔、小ぶりな乳房、沈んだ黒い瞳、熟れた唇。それから、何と言ってもあの豪勢な衣装。真珠を埋めこんだようなチョーカー、刺繍のほどこされた高価そうなドレス、白くぽってりした指にはめられた赤や金色の指輪。
息子と共に大工房を営んでいたクラーナハは、ザクセン選帝侯に招かれてヴィッテンベルクの宮廷画家として制作に励んでいた。「不釣り合いなカップル 老人と若い女」(1522年)などの寓話的絵画で知られるクラーナハが得意としたのが、神話や伝説にまつわる作品だ。その多くは女性像であり、ほとんどが裸体である。華麗な衣装を纏った特徴的な聖人画や宮廷の男女を描いた肖像画は、一度見たら忘れられない不思議な怪しさを放っている。
裸婦像のテーマが宗教世界に依拠する「アダムとエバ」や「ヴィーナス」「ルクレティア」なのは当時の一般的な事象だとしても、クラーナハの描く裸体はどれも決して大胆ではないのに、どこかエロティックな雰囲気を漂わせている。華奢なのに、どこか奇妙に肉感的なのだ。年齢も怪しい。娘というには色気がありすぎるし、お姉さんというには洗練されすぎていて、匂いたつような色気がありすぎる。なにより描かれているのがただの美女ではなく(それが女神であるにしても)美しすぎるように思えるのだ。
たとえばクラーナハの描いた古代ローマ史を彩る伝説の女性ルクレティア。伝説によると、ルクレティアはタルクイニウス・コラティヌスの美貌の妻で、ローマ王タルクイニウス・スペルブスの子セクストゥスに強姦されたことがきっかけで親族に復讐を託し、自害した悲劇の女性ということになっている。しかしクラーナハに描かれたルクレティアは、その不幸な生涯を感じさせないどころか、苦痛とはほとんど無縁のクールな、わずかに微笑んでさえいるような表情を浮かべている。右手の鋭利な刃物はしっかりと胸に向けているが、それにしたってファッションモデルのような出で立ちだ。
実は、彼女がこのような姿なのにはきちんと理由がある。クラーナハの描くルクレティアの作品は、1543年にゾルムスの伯爵がザクセン選帝侯から贈られたとの記録から、女性ではなく、もっぱら男性への贈り物として使われたと考えられているらしい。ともすると、ルクレティアの鑑賞者へと向けられたあの怪しい視線も、その恐ろしいほどの美貌にも納得がいく。
『ルカス・クラーナハ 流行服を纏った聖女たちの誘惑』八坂書房
著/伊藤直子