2021/09/28
横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店
『旅猫リポート』講談社
有川浩/著
本との出会いはふしぎなものだとつくづく思う。
書店という大量の本が常にぐるぐる廻っている場所にいても、「読む」という行為にいたるものは、その中のごくごく一部だ。
それに偏屈者の私は「売れてる!」とか「人気!」とか大きな声でその素晴らしさを叫ばれているものが実はどうにも苦手なのだ。自分自身が“そちら側”にいると分かっていても、手を伸ばすきっかけは「読みたい」と思った自発的な心の衝動あってこそがいい。たとえ向こうからやってきたものであったとしても、その本の中にある「素晴らしさ」を見つけ伝えることが、私の仕事であるという矜持を持っていたい。
前置きがすっかり長くなってしまった。今回ご紹介する本もその私の「偏屈さ」により、今まで手にとる機会がなかったものだった。映画化もされ、すでに多くの方の手に渡っている良書であることは十分理解している。けれど、熱狂の中にあったときでさえ、横目でちらりと見るだけで、あの頃の私にはどうしても触手が伸びなかった。読まなくても「面白い」ことも「感動する」ことも分かっているような気がしていた。
なんとも、高飛車で傲慢な態度だろうと思う。
まるでこの態度は猫のようではないか。
ん?・・・猫?
あぁ、そうか。
あの頃よりもすこしだけ成長した私に、硝子のようにうつくしい一対の瞳と、憧れてやまない柔らかな毛並みを持つものが語りかける声がようやく届いたのだろう。
時は巡り、巡って巡って、巡りすぎるほどに時間が経った。
この物語はナナという一匹の気高い猫の視点をもって描かれる。
ナナの飼い主になったのは、宮脇悟。
ナナとサトル。
一匹とひとりの、かけがえのない旅が幕を開ける。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
ナナとサトルの出会いは、銀色のワゴンのボンネットの上にて。あとで知ることになるのだが、この車はサトルの愛車だった。そこで野良猫の「僕」はよく眠っていた。あたたかく居心地のよい場所で眠ることは猫にとっては当たり前のしあわせの享受だ。そんな安眠を貪る僕にやたらと話しかけてくる人間がいた。どうやら男は「サトル」という名前らしかった。
サトルは僕のために、いつからかカリカリを献上してくるようになった。もちろん僕が断る理由はひとつもない。なに、受け取らない理由もないし、出されたら完食するのが礼儀ってもんだろ?
もしかしたら、サトルは僕のことが好きなのかもしれないな。でも僕は高貴な野良猫様だから、人間の世話になどなるものか。
…と思っていたのに。
不覚にも車に撥ねられてしまったあの日、壮絶な痛みとともに歪んだ運命はなぜか奇妙な方向へと曲がりくねった。
「お前にそっくりな猫、子供の頃に飼ってたんだよ」
「額に八の字の形にぶちが入ってるから、ハチって名前だったんだ」
「ナナってどう?」
サトルは僕としっぽのカギの向きだけ違う――僕にそっくりの猫を飼っていたことがあるらしい。そんな女の子みたいな名前はいやだ!と必死に鳴いて抵抗したけれど、なぜだかそれを了承、なんなら快諾だと受けとられてしまった。サトルは、随分な鈍感野郎だ。
こうして僕にはナナという名前が付き、サトルとのふたり暮らしが始まったのだった。
僕とサトルが暮らし始めて五年。聡明な僕はひとと暮らすルールを瞬く間に理解し、ふたりはなかなかに上手くやってきた。出会いから流れた時間は、僕を壮年の年齢に、サトルを30歳を少し過ぎた年齢にした。
どうやら、僕とサトルには離れ離れにならなくちゃいけない事情ができたらしい。
「それじゃ、行こうか」
僕とサトルは、サトルの愛車の銀色のワゴン車に乗って旅に出た。
僕の貰い手を探す旅へ。ふたりの最後の思い出を作る旅に。
小学生の頃の幼馴染のコースケ、中学生の頃の友人のヨシミネ。高校生の頃の友人のスギとチカコ。そして――小学生だったサトルを引き取ってくれた叔母のノリコ。
サトルとともに向かう先、出会う人々はサトルにとって大切なひとたちばかりだった。僕と出会う前のサトルと過ごしてきた人々と、言葉を交わすサトルはまるで少年のようにあどけない顔で笑っていた。
かつての少年の面影が浮かぶサトルの笑顔を見るうちに、サトルの記憶が僕の胸にも去来する。あれ、知らなかった?猫って過去を視る能力をもっているんですよ。ま、特定の人物にしか作用しない特別な能力ではあるけどね。
小学生のサトルには、表情の一切を失い茫然と虚を見つめていたときがあった。サトルが修学旅行に行っている間に、両親が交通事故で亡くなってしまった。
サトルは、コースケの前で初めて声をあげて泣いた。大人の都合に振り回された挙句に、お母さんの妹のノリコとの二人暮らしがようやくスタートして。たくさん転校もしなくちゃならなかったし、何より――大切な家族だった「ハチ」を手放さなきゃならなくなった。
大人になっても、ノリコにどう接していいか分からないままだったね。二人とも、不器用すぎると僕なんかは思うけどね。
中学生のときには、互いに家庭の事情を抱えたヨシミネと修学旅行の夜に抜け出して、すぐに見つかってこっぴどく叱られたんだ。
サトル。ハチに会いたいって、会うためだったって、大人にはどうしても言えなかったな。
明るくて誰とでも仲良くできるけれど、どこにも属することのなかったサトル。高校生の頃は三角関係になりそうだった大切な友人関係をサトルは守った。そして、サトルが大切に想っていた二人は夫婦になった。
サトル、お前ってなかなかいい奴じゃないか。そんなサトルにはきっとサトルのことを真っ直ぐに愛してくれるひとが現れるよ。そうじゃなきゃ、神様なんている意味ないだろ。
ノリコとサトル。お前たちは紛れもなく、家族だ。言葉足らずで不器用なノリコと、一足飛びに大人にならざるえなくなったサトル。突然始まった二人の暮らしの大変さはどんな言葉をもっても語ることはできないだろう?ノリコはサトルに愛情を注ごうとしていた。それは、サトルの母と父の分まで。でもノリコの愛情はちょっと変化球気味だったし、混乱の渦中に一人ぼっちになってしまったサトルには、受けとるだけの余裕がなかったんだ。誰も、何も、悪くなんてなかったんだよ。
サトルとふたり車に乗って。初めて見る景色や、懐かしいひとびとに会う旅は僕にとって最高の思い出になった。でも、サトル。サトルの好意を無駄にしてごめん。サトルが出会わせたくれたひとたちは、いい奴ばかりだったよ。サトルが、このひとたちにどれだけ感謝され、どれだけ愛されているのか、僕には分かりすぎるくらいに分かったよ。
だからさ、サトル。僕をそんなサトルのそばにいさせてよ。
サトル。――サトル。
僕をそばに置いたまま、安心して旅立ってくれよ。
サトルが教えてくれたこと。ナナカマドのハッとする赤色には濃淡があること。フキの葉の下にいるのはコロボックルという妖精。富士山は遠くから見ても分かるほど大きくて、車を何台も飲み込んで海を渡る白い乗り物はフェリー。北海道のだだっ広い草原にはのんびりと草を食む馬がいて、道端に咲く紫と黄色の花をふたりで墓前に手向けた。
サトルはたったひとりで生きてきた僕に、抱えきれないほどのものを贈ってくれた。ふたりで暮らすことの楽しさ。ともに眠りながら知る、あたたかくやわらかな重み。同じ景色を見ながら言葉を交わす喜び。
サトル。ねぇ、サトル。
たくさんの愛を、ありがとう。
サトルの旅も、ナナの旅も――ふたりの旅は今も続いているだろう。
それはこの物語が創造物であり、ファンタジーであるからだ。ファンタジーの世界においては、たとえ肉体が滅んだとしてもふたりの魂は永遠に、今でもともにあるのだと胸をはって言うことができる。
けれど、物語が幻想で、想像の域を超えないものだと、言い切ることはできないのではないかと思い始めている。
ナナとサトルの旅を経て、私の世界はよりいっそうの深みをたずさえ輝きだしているように感じるのだ。空を見上げると青と白のコントラストがこんなにもうつくしい。視線を落とすと青々と茂った緑から、りーんりーんと軽やかなメロディが聴こえてくる。風は秋の匂いを纏いながら、いたずらに頬を撫でる。
世界の扉が、今また大きく開かれていく。
ねぇ、サトル。
ねぇ、ナナ。
君たちが見た世界も、こんなにも色鮮やかで様々な香りのする、豊かさにみちたものだったのでしょう?
『旅猫リポート』講談社
有川浩/著