2022/05/31
長江貴士 元書店員
『数学する身体』新潮社
森田真生/著
本書のタイトルは「数学する身体」である。「数学」と「身体」というのは、かなりかけ離れた存在に思える。もちろん、「数学する身体」というのは、「思考力を持つ知的生命体」という意味にも捉えられるだろうが、本書のテーマは、「数学の歴史を『身体性』というキーワードで捉えてみること」である。「身体性」というのは、言葉としては分かるような気がするが、「数学」と一緒になると途端によく分からなくなると思うので、まずその「身体性」に関する印象的な話から始めよう。
著者が示すのは、「人工知能にある課題を出した結果」に関するものだ。人工知能に、「100種類ぐらいある『論理ブロック』を組み合わせて、ある機能を持ったチップを作る」という課題を与えられた(「論理ブロック」というのは馴染みのない言葉かもしれないがあまり気にしなくていい)。試行錯誤を繰り返した結果、求める機能を持つチップが完成した。イメージとしては、「乾電池やスイッチやコードを組み合わせて、指定した豆電球が点灯するような配線を考える」みたいな課題だと思ってもらえればいい。
人工知能は答えを導き出したのだが、人工知能が作り上げたチップは、「人間には絶対に作成不可能」なものだった。人工知能は、100種類の論理ブロックの内、たった37個しか使わなかったが、これは人間が設計した場合には不可能な数字だという(本来は、もっと多くの論理ブロックを使う必要がある)。さらに37個の論理ブロックの内、5個は他の論理ブロックと繋がっていなかったという。繋がっていないということは、普通に考えれば、「その論理ブロックは何の役割も果たしていない」と考えるしかない。しかし人工知能が生み出したチップは、37個の論理ブロックのどれ1つを取り除いても正常に作動しなくなるのだという。つまり、37個すべてのチップが、何らかの役割を担っているということだ。
さらに詳しく調べた結果、このチップは「電磁的な漏出や磁束」を利用していることが分かった。どういうことか。簡単に説明すれば、人間であれば「ノイズ」と捉えてむしろ取り除こうとしてしまうようなものをうまく利用して回路を組み上げていた、ということだ。例えば、隣の部屋から決まった時間に騒音が聞こえるとして、普通ならその騒音を止めさせようするが、そうではなく、その騒音を目覚まし時計代わりに利用して起床するように生活を変える、みたいな感じだろうか。他のブロックと繋がっていないために不要と思われた5個のブロックは、そういう「ノイズ」を利用してチップ全体の機能に関わっていたのである。
これがどう「身体性」に関係するのか。
人間が何かを「思考」する場合、それは「脳」で行われていると考えるのが自然だ。つまり、「身体(頭蓋骨)の内側にある脳という器官」が思考を行っているということだ。それは同時に、身体の外側にあるものは「思考」とは関係ない「ノイズ」である、と判断するということだ。しかし著者は、先程の回路の設計と同様、身体の外側にある、普通なら「ノイズ」と判断されてしまうものが、実は「思考」に関係している可能性も十分あるのではないか、と考えている。「数学」も当然「思考」なのだから、「数学」が身体の内側(つまり脳)だけにあるのではなく、脳の外側の環境にも染み出しているのではないか、と。
この話は、あんまり納得感を得られないかもしれないが、じゃあこの話はどうだろう。「数学」というと、「計算」を思い浮かべる人も多いだろう。そして「計算」というのは最初は、紙と鉛筆で行う「行為」のはずだ。しかし、その「行為」に慣れてくると次第に、頭の中だけで計算が容易に出来るようにもなってくる。つまり、「計算」が「身体化」されることによって、「行為」から「思考」に変わっていく、ということだ。
このように「身体性」という観点から「数学」を捉えることで見えてくるものがある。
本書は基本的に、数学というものがどのような変遷を経てきたのかという歴史を概観していく作品だ。その大きな流れを、「身体性」をキーワードにして捉えていく。
数学という学問が生まれた当初は、当たり前だがまだ「+」や「√」といった記号は存在しなかった。数学というのは「計算するもの」ではなく「見るもの」だったのだ。図形を描くなど、「視覚的に捉えられるもの」が、数学の研究対象だった。
しかし、様々な数学記号が整備されることで、数学は「視覚的に捉えられるもの」以外も扱うようになっていく。例えば、虚数「i」は、見ることはおろか、実在するものとして捉えることも困難な概念だが、しかし実在しなくても数学的に処理し、有用に使うことが出来る。このように、記号が整備されることによって、数学は「見ること」から「計算すること」へとシフトしていく。
しかしこの大きな流れは、だんだんと不安定な状況を生み出すことにもなっていく。というのも、視覚的に捉えることが出来ていた時代には起こり得なかったような、人間の直感を大きく裏切る状況が次々に発見されるようになっていったのだ。大雑把なイメージで書くと、肉眼で見ている時には気づかなかったことに、顕微鏡で見ることで気づくようになってしまった、というような状況だ。肉眼で見ている時には全然問題なさそうだった「数学」というものが、どんどんと安定性を欠くものであるかのように捉えられていくようになる。
そこに現れたのがヒルベルトという数学者だ。ヒルベルトの主張を簡単に表現することは難しいが、ざっくり書くと、「数学がちゃんと安定した学問だってことを、みんな一旦立ち止まって考えてみようぜ」という感じだろうか。数学というのは、様々な人間が少しずつ拡張していったもので、言ってみれば、様々な建築家が無計画に継ぎ接ぎで建てた建物みたいなものだ。ちょっとみんな一旦、この建物の基礎がちゃんとしてるってことを確認しようぜ、というようなことをヒルベルトは主張し、具体的なやり方を提示してみせたのだ。
しかし実際は、ゲーデルという数学者が、「ヒルベルトの主張していることは実現不可能だ」ということを証明してしまうというなかなかアクロバティックな展開があり、ヒルベルトの野望は潰えることになる。しかし、まったく無意味だったわけではない。
著者曰く、ヒルベルトのやろうとしたことは、数学から「身体」を削ぎ落とすことだという。数学というのは、変な表現だが「人間が思考する」ことで成立している。つまりそれは、人間という「身体性」を必要とするということだ。しかしヒルベルトは、数学から人間という「身体性」を切り離し、数学単体で自立させようとした。その試み自体は失敗に終わることになるのだが、ヒルベルトの考え方を身に着けたアラン・チューリングという数学者が、「身体性を削ぎ落とす」という方向から考え続けた結果、コンピュータが生まれたのだ、というのが著者の主張である。
さて、話はまだ続く。アラン・チューリングはコンピュータを生み出したが、実は人間の「心」に関心を持っていた。というか、人間の「心」に、機械的な方向からアプローチできるのではないかと考えていたという(その思考から、今の人工知能の原型のようなアイデアが生まれもしている)。しかし著者は、「数学」と「心」について考える上で、アラン・チューリングのアプローチに賛同していない。それは、岡潔という数学者の存在が大きいからだ。
岡潔は、生涯でたった10編しか論文を発表しなかった数学者で、さらに30代後半からは故郷の村に籠もって、数学と農耕だけをして暮らしたという、かなりの奇人である。そんな彼は、当時数学界で最難問とされていた問題をたった一人で解決し、しかもその解決のために生み出した「不定域イデアル」という理論はその後、現代数学を支える最も重要な概念を生むきっかけにもなった。それまで国内でさえ無名だった岡潔の名前は、一気に世界に知られることになる。
そんな岡潔は、数学を「情緒」によって捉えるものだと考えていた。つまり、「心」で捉えるということだ。著者は岡潔のこの考え方の方に親和性を抱いているのである。
本書は、数学の本ではあるが、一般的にイメージする数学の本ではないだろう。感覚としては、哲学書に近い。数学史をざっと概観しつつ「身体性」の問題を取り上げ、数学によって「心」を理解しようとした者たちを描き出す作品だ。
『数学する身体』新潮社
森田真生/著