一生手元に置いておきたい、こだわりの限定本

坂上友紀 本は人生のおやつです!! 店主

『馬込の家 室生犀星断章』 龜鳴屋
伊藤人誉/著

 

「好きだ!」と言えば、同志の人には思わず握手を求められるような、そんな本をつくり続ける金沢の版元「龜鳴屋(かめなくや)」。ファンになったきっかけの一つは、少しずつ出版される本の中に、金沢出身の作家であり、個人的に最も好きな作家のひとりである室生犀星に関するものがちらりほらりとあったからです。
『馬込の家 室生犀星断章』は第五冊目の龜鳴屋本にあたるのですが、「普及版」でも五百二十二部限定で、別につくられた三十三部の特装版を合わせても、その数わずかに五百五十五冊。

 

す……刷数が少なーい!!
しかしながらにその一冊一冊から醸し出される存在感が半端ではないため、五百五十五部限定ではありますが、何なら五千五百五十五部(限定)だと言ってしまいたいくらい!

 

龜鳴屋さんの本の特徴は、とにかく大事にしたくなるような本であることです。私家版、特装版は言わずもがな、一般本も含めて「欲しい!」と願った本をひとたび手にすれば、一生側に置きたい衝動に駆られます。もしくは、何か特別な時のプレゼントにしたくなる。
本書も例にもれずで、私が持っているのは普及版ではありながら、段ボール筒箱に納まっているし、本体は本体で新緑が最も深まった時のような濃い緑いろで、表紙中央には犀星の馬込の家の庭を戦時中ですら鮮やかに彩っていたという「岡アヤメ」の手刷り木版画が貼りつけられているのですが、この装いで「普及版」……。いわんや「特装版」!
そんな見た目の美しさと共に、手にしっくりと違和感なく馴染む大きさと紙質で、しみじみと読書に没頭できる形だと思います。

 

さて、そんな龜鳴屋さんが二千五年に刊行された『馬込の家』(原稿を書いている段階で在庫あり。龜鳴屋さんの出版物は、基本的に龜鳴屋さんの通販のみでの販売なので書店では買えません)は、戦時中軽井沢に疎開していた室生犀星の馬込の留守宅を預かっていた「幻の芥川賞作家」こと伊藤人誉(ひとよ)さんから見た当時の生活や、師とも時に年の離れた友とも言えそうな犀星の周辺と、それから随分長い年月を経たあとで、来し方を振り返り考察されるようになった事がら等についての随筆です。
「幻の芥川賞作家」の呼び名の由来も読めばわかるのですが、最初の一ページを読んだだけでも、普段づかいの形容詞を使っていながら決してありきたりではない一文一文に、本を読むとは文体を読むことだと改めて痛感させられます。

 

培われた感受性のもと、しっかり見ることができていれば、「なんてことのない一日」とは、実は宇宙ができてからの長い長い年月の中で、たった一日その日だけしか起こり得ない数々の出来事に満ちた「唯一無二の一日」であるのだとわかります。そして、それらをあまねく伝えてくれる言葉で書かれた文章ならば、「なんてことのない日常」についての記述からですら、真新しく浮かび上がってくるものがたくさんある。

 

私は室生犀星がとても好きで、とても好きなので作品も割と読んでいますが、もちろんのことこの本の中で初めて知った犀星の一面があり、一方で「これって犀星っぽいなぁ!」と会ったこともない犀星その人の文章から伝わるところの犀星らしさも在りました。
それは、例えば以下の犀星の封書の開け方についてのくだりからも顕著です。

 

十二月の初めに、私は室生家の住所がゴム印でぺたりと押してある封筒を受けとった。(略)ひらいてみると、封筒のなかからまた別の封筒がでてきて、これは三笠書房から室生犀星に宛てたものであった。この封筒は封がちぎられていた。ちぎり口がふかいので、ちぎり目は「東郷元帥」の切手をやぶいて、なかの便箋に接触し、それをよけて山なりになり、もうひとつ山をえがいて向こう岸に達していた。
私はそういう封のちぎり方はしたことがない。(略)こういうふうに、封書をもののかずともしないで、ひと息に、むとんちゃくに、手かげんなしに、自信にみちて封を引きちぎるやり方は、それだけで私の気持ちを圧倒した。
(「一この坂をのぼらざるべからず」より)

 

この封書のちぎり方に、なんとなく犀星の文学性も出ているような気がしてならないのですが、加えてもしとても美しい封筒に入っていた手紙だったとしたら、犀星はむとんちゃくにちぎらないような気もしながらも、ともかくこの文章から受けたのは、ひらがなと漢字の絶妙なるバランス感(絵画的と言いたい!)と、どこを見るかの取捨選択が洗練されている凄さです。そして、このことは部分的にではなく、全体的に言えることでもあります。
犀星の「字」についての考察(p.84)や「ピン札」好きだった犀星のエピソード(p.109)はたまた、正宗白鳥に関する話(p.173)……エトセトラ。枚挙にいとまがありません。
これで芥川賞作家ではないって、一体どういうことーっ!? と叫びたくなるのですが、人誉さんの場合、その一番の原因はおそらく作品数の少なさにあるのかなと察するのですが、結局賞を受賞するとは、それ以上でも以下でもないんだなという気にもさせられます。
大事なのは、何をどういうふうに書いたのかだけで、後世に残るか否かも、何をどういうふうに書いたのか、それが良いものであるのかどうかに尽きるのだと思います。

 

……と、話が逸れてしまいましたが、ともあれ室生犀星研究という意味においても、また文体を読むという意味においても、大変おすすめしたい伊藤人誉さんの『馬込の家 室生犀星断章』なのでした。

 

最後に、犀星の弟子であった堀辰雄と人誉さんとのただ一度きりの出会いの場面も実に印象的だったので、少し切ない情景ではありますが、抜き書いて終わりにします。

 

私は紹介されて言葉を交わしたけれど、それは話をしたという部類には入らない程度のあいさつだった。そして私が「風立ちぬ」の作者と口をきいたのは、それが最初で最後であった。多恵夫人は朝巳がもって行った食用油と引きかえに、奥の戸棚から、まだ封を切ってない缶入りのスリーキャッスルを取り出してきた。外国製のたばこはもう見ることもできなくなった時代で、缶入りのスリーキャッスルがまったく手つかずのまま、追分の古びた家の戸棚からあらわれるのを見たとき、私は夢そのものが詰まっているような気がした。食用油は堀辰雄にとって、たしかに缶入りのたばこよりも実質的には役に立つだろう。しかし私は、その缶が多恵夫人の手をはなれたとき、堀辰雄の夢が消えたのだという思いがした。
※注 多恵夫人:堀辰雄の妻、朝巳:犀星の息子
(「八 信濃山中」より)

 

馬込の家 室生犀星断章』龜鳴屋
伊藤人誉/著

この記事を書いた人

坂上友紀

-sakaue-yuki-

本は人生のおやつです!! 店主

2010年から11年間、大阪で「本は人生のおやつです!!」という名の本屋をしておりましたが、2022年の春に兵庫県朝来市に移転いたしました! 現在、朝来市山東町で本屋を営んでおります☆ 好きな作家は井伏鱒二と室生犀星。尊敬するひとは、宮本常一と水木しげると青空書房さんです。現在、朝日出版社さんのweb site「あさひてらす」にて、「文士が、好きだーっ!!」を連載中。

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