イエスは手を洗わなかった? コロナ時代に通じるユダヤ・キリスト教の「浄・不浄」――『疫病の精神史』竹下節子

馬場紀衣 文筆家・ライター

『疫病の精神史 ユダヤ・キリスト教の穢れと救い』
竹下節子/著

 

 

新型コロナウイルスのために公開ミサが3ヶ月のあいだ禁止されていたフランスのカトリック教会がふたたび信徒を迎え入れたとき、ふたつの大きな変化があった。ひとつは、いつもなら水が入っているはずの聖水盤が「から」だったこと。聖水盤とは、信徒が教会に入る際に指に水をつけて身を清め、十字を切るためのものだ。代わりに、アルコールジェルによる手指の消毒が義務付けられた。もうひとつの変化は、聖体のパンを直接口で受けとれなくなったこと。司祭や助祭たちは手指の消毒を繰りかえしながら、聖体のパンを配ることになった。信徒はといえば、こちらも消毒した手でパンを受けとり、マスクを上げてそっと口へ運ぶのだ。

 

ところで、2000年前のイエスは、たった数個しかなかったパンを増やして5000人もの腹を満たすという奇跡を起こしてみせた。社会から疎外された病人たちに迷わず手を伸ばし、触れた、その後で。

 

治癒の奇跡を行っていたイエスを目撃したファリサイ人たちは「なぜ食前に手を洗う掟を破るのか」と問いつめた。現代のような衛生学的知識を持ち合わせていない時代だから、手洗いの目的はもちろん感染予防ではない。ユダヤの教えでは、死人や病人、異邦人、死んだ動物に触れることで「穢れ」が生じるとされていたため、手洗いの儀式が習慣化されていたのである。だから、食前の手洗いは儀式的に入念に行われた。人びとは睡眠中に悪霊が手につくとか、手洗いをせずに穢れた手で食事をすると食べ物を通して悪霊が体内に入るとの言い伝えを信じていたのである。一方、イスラエルの地に住み、手洗いをしてから食事をする者は、誰でも永遠の命が与えられるとも伝えられていた。

 

イエスは、こうした形式主義的な偽善を嫌った。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出される」「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」「手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」イエスにとって、洗い清めるべきは手ではなく心だったのだ。

 

手洗いが象徴的に「体の中も外も清めることができるもの」と考えられてきたことは興味深い。人間の手は、病を癒し、祝福し、悪行を行うこともあれば人を救うこともある。手によって実現される行為はすべて、心から発する。旧約聖書では、「手」は人間の神髄と考えられてきたという。著者はさらに「手洗い習慣のおかげで、結果的に衛生状態がきわめてよかったであろうユダヤ社会と比べ、洗礼者ヨハネやイエスの弟子たちが手洗いを義務づけなかったことが、その後のキリスト教の展開に少なからぬ影響を与えることになった」とも語る。

 

イエスはその後、7つのパンと少しの魚を4000人に分けるという奇跡をふたたび起こす。この奇跡の前にも、イエスは病人たちをその「手」で癒しているのだが、きっと食事の前の手洗いは徹底して無視していたにちがいない。

 

『疫病の精神史 ユダヤ・キリスト教の穢れと救い』
竹下節子/著

この記事を書いた人

馬場紀衣

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文筆家・ライター

東京都出身。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。国内外の大学で哲学、心理学、宗教学といった学問を横断し、帰国。現在は、本やアートを題材にしたコラムやレビューを執筆している。舞踊、演劇、すべての身体表現を愛するライターでもある。

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