2022/07/21
馬場紀衣 文筆家・ライター
『森があふれる』河出書房新社
彩瀬まる/著
物語は、作家・埜渡を中心に、彼をとりまく男性編集者、不倫相手、女性編集者らの視点を入れ替えながら綴られていく。その日、編集者の瀬木口は担当作家の埜渡の自宅でボウルいっぱいの草木の種を食べている妻・琉生(るい)の姿を目撃する。翌日、彼女の身体は異様な変化を遂げる。なんと毛穴から芽が出てきたのである。「発芽」した琉生は植物の苗床となり、ぐんぐん成長し、やがて森となって周囲を侵食しはじめる。
人が森になる。ショッキングな出来事のきっかけは、夫の不倫だった。埜渡はカルチャースクールの生徒と関係を持ち、小説の題材にしていたのである。琉生は過去にも、作家の夫に小説の題材にされた過去がある。そのうえ、発芽した妻を「下手な作りものより、今の琉生の方がずっと面白くて」と言う始末。当の妻は「自殺に等しい自暴自棄で、悲惨以外のなにものでもない」状態である。
「瀬木口は部屋の一角に大きく茂ったそれを目に映し、なんてまがまがしいのだろう、と胸が黒く塗り潰された気分になった。幅広の水槽から細くまっすぐな茎が何十本も、瀬木口の背丈に届く勢いで育っている。そしてその植物たちの根元には空間の狭さに応じて手足や頭をすくめた、胎児を思わせる造形の青白い肉がうずくまっている」
編集者の瀬木口が作家の妻に水をかける場面は心象的だ。如雨露を傾けて流れた水が、生い茂った葉を濡らして茎をすべり落ちていくと、唐突に水槽の底から水を喜ぶ琉生の声が聞こえてくる。琉生は「今まで聞いたことがないほどの明るい」声で返事をすると、生い茂った葉をさやさやと揺らして笑うのだ。まるで自分の異常事態を喜んでいるみたいに。
物語の中心にいるのは作家の埜渡だが、本作はフェミニズム小説として読むこともできるかもしれない。森になるという現象が、夫の無自覚な身勝手さに自由を奪われ続けてきた妻の呪いのようにも感じられるから。夫の浮気相手と争わず、対立することもなく、ただ静かに植物化していく妻が感じている閉塞感と開放感。一方で、不快さと後ろめたさのために森から逃げ出そうとする夫。奥深い森は、琉生の身体そのものでもある。
「この森には虫がいない。動物もいない。命の気配がまるでない。それなのに確かに息づき、震え、存在を拡大している。いったいなにが生きているのか。
もちろん、琉生だ。
森へ歩きだすことは、彼女の内部へ歩き出すことと同じだ。
行きたくない。どうせまた、答えようのない正しい非難を浴びせられるだけだ。」
物語の終盤、埜渡は植物の蔓を掻き分けて森へ踏み入る。琉生の身体からは爽やかな果物の香りがにじみ出ている。植物に侵されながら交わされる夫婦の会話は、あまりにも幻想的だ。
『森があふれる』河出書房新社
彩瀬まる/著