2022/08/15
馬場紀衣 文筆家・ライター
1352年にサハラの奥にある王国を訪ねたイスラムの世界的旅行家イブン・バトゥーダは、「ここではまず、侍女、女奴隷、一般の少女まで全裸体で平気で男性の前に姿をあらわし、王宮で食事をいただいたときも、給仕の女性20名あまりはまったくの裸であった」と当時の様子を書き残している。厚ぼったい綿布で身体を包んだ王様や大臣に対して、女性は首飾りや腰紐を巻きつけただけの恰好というのは、なんともちぐはぐな光景である。
あるいは、不自然で異様なのは旅人のほうかもしれなかった。裸体を裸体と感じていない彼らからすれば、イブン・バトゥーダの裸体へ向けられた意識は過剰に映ったかもしれない。そもそも、何万年も裸で過ごしてきた熱帯の諸民族にとっての「裸」と、着衣文化に生きる私たちが「裸」と聞いてイメージする姿とのあいだにはズレがある。
「彼らがいう『裸』とは、着物を着ている人がいう『一糸もまとわず』とは意味がちがって、何ひとつ飾りのついていない身体のことを指している。その意味で、アフリカには――多分その他の地域においても――裸族は存在しない。裸に見えても、どこかに何か飾りがついている。」
飾り、といっても種類はさまざまだ。頭飾り、耳飾り、腰飾りのほか抜歯や削歯のように身体のどこかを損傷させたり、身体彩色(ボディ・ペインティング)や刺青のように、体へ直接装飾を施す場合もある。いずれにしても「身体を飾る風習は衣服の起源よりも古い」のである。だから熱帯の住民たちからは、衣服を着ていなくても「自分たちは太陽と空気を着ている」という言葉が出てくる。よって、完全な裸族などいないのである。とはいえ、羞恥心まで脱ぎ捨てたわけではない。本書は民族の裸体観について次のように説明する。
「裸体観は民族によって微妙な異同があり、被服状況だけで決められているわけではない。年中裸体姿の熱帯の人びとにおいても、ある種の装身具、皮膚装飾、身体変工などの欠如が、裸体とみなされて羞恥心をひきおこすのである。」
では、いかなるときに羞恥心が生まれるのだろう。著者は、インドネシアやマレーシアにある「クリス」と呼ばれる短剣を例に挙げる。男の衣装は、この短剣を身につけて完璧になるという。一人前の男が「クリス」を携えずに外出すれば人前で恥をかくことになる。あるいは、マコロロ族の女たちが上唇に装着している大きな輪「ペレーレ」。美醜の価値観は大部分が文化の差によるものだが、女たちにとって口の円盤は美人の条件なのだ。
西欧の倫理道徳では、裸体は隠されるものとしてある。しかし文化によっては、たった一つの着用物の脱落が羞恥心を喚起させたり、美しさや威厳の条件を満たしたりするのだ。ページをめくっているあいだ、ずっと旅人のような気分に浸っていた。読み終えて、新しい景色が見えてくる一冊だ。
『裸体人類学』
和田正平/著