2023/02/13
横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店
『植物少女』朝日新聞出版
朝比奈秋/著
わたしにとって、母は会いに行く人物だった。
少女が語り始める物語の中で母が目覚めることはない。
語り部である少女、美桜を出産する際に植物状態となった母は回復することなくその生涯を閉じた。
少女は、母が話し、歩いていた姿を知らない。
時おり父や祖母が涙ぐみながら話す「普通」の人生を送っていたはずの母は、美桜が生まれる以前の過去の中にしか存在しえない。
では、少女がその胸に頬を寄せる母は、かつての母の面影だけを残したままに変容した何者かなのだろうか。艶やかな髪と白い肌を保ったまま、捻じれた首を元に戻すこともなく健気に乳を生み出す女性のことを、どんな言葉を持ってすれば形容することができるだろう。
静かに佇む植物のようにひそやかに呼吸を繰り返す母は、人間という枠を超えたところへ旅立ってしまった。
そんな母から生まれたわたしは、わたし自身を言い表す言葉を持たない。
部屋には五つのベッドがあった。奥には南向きの大きな窓とガラス戸があって、外には背の低い生け垣があった。直射日光はその生け垣と短い庇で遮られるが、緑の葉っぱが光の刺激を吸いとって柔らかさだけを通してくれるおかげか、部屋はいつも朗らかな明るさで溢れていた。
母は、そんな病室の一番奥、窓際のベッドに入院していた。
うんと小さな子供の頃は父や祖母に連れられて。
やがて一人でここを訪れるようになった美桜は母とのすべての時間をこの場所で過ごした。
家族にとって一人で向き合うには重すぎるこの空間は、
“この母”しか知らないのだから、
母の胸の中は今なお健やかに眠れる場所で、どこよりも安心する寝床だった。
祖母の干渉、父の矛盾。
母が不在の家庭内では、実の娘と妻を「失くした」大人の行き場のない感情が黒く帳を下ろす。
美桜は――
見ていないわけでも、分かっていないわけでもなかった。
自身が特殊な状況にあると知っているからやり過ごしていただけだった。
けれど、母にだけは洗いざらい打ち明けられた。
その権利が美桜にだけはあるように感じられた。
やがて少女は、死の粒子が緩慢にみちるこの場所で、誰にも言えない言葉をこぼすようになる。
“大人なのに、ずるくて弱い。そんな時、我慢するのはいつも子供なのよ”と母から声が返ってくる気がする。
聴こえるはずのない声が、美桜の鼓膜を優しく震わす。
かけられたい言葉は美桜を温かく包むのに、その痕跡すら残さない。
母は冷たい人形ではなかった。
呼吸をし排泄をし、月に一度血すら流し続ける、ただ動けないだけの生身の体。
美桜の言葉を途中で遮ることもなく、その時々で完璧なまでに与えられた役割をこなし、すぐさま脱ぎ捨てられる人間など母以外にいない。
“外の世界”に、母ほど美桜を受け入れてくれる存在はない。
美桜が母を利用する様は、子供らしい無邪気さにあふれ、残酷なほどの爛漫さに満ちていた。
思うままに弄び、自分にとって都合のいいシーンに散々付き合わせ、人心地着いたころ唐突に切り上げたとしても、文句も愚痴も浴びせられることはない。
けれど、それは少女の混乱と葛藤ゆえの行為でもあった。
“みお、産まんかったらよかった?昔みたいに歩いたり、話したり、働いたりしてみたい?”と尋ねてみても、母はただ呼吸を続けるだけだった。
“ママの娘やから”心の奥で囁いた。
“わたしも植物なんかも”
少女の震えを受け入れられるのは、空っぽの母以外にいなかった。
どんなに注ぎ込んでも、これ以上壊れようもないのは母でしかありえなかった。
時が流れ、美桜は大人になっていく。
けれど、母に変化はほとんどない。
母が根を下ろす病室にも変調はほとんど訪れない。
首呼吸のお爺も、歯のないお婆も、美桜より一歳年下のあっ君も、ただただ呼吸を繰り返す静かな植生だ。
美桜のいない空間で彼女たちが見つめ合っていたとしても、そこに言葉は生まれない。
だからあの空間で何が起こっていたとしても、知るよしもない。
看護師も医者も、美桜とはすっかり顔なじみで気安く言葉を交わし合った。
母を中心に緩やかに形成された人間関係はどこまでも穏やかに続いていく。
しかし、低温保存された世界と生身の美桜との現実の乖離は止まらない。
高校生になった美桜。母の仔細を打ち明けずとも友人と関係を築くことはできた。
けれど、友とその母に連れられて購入したマカロンを母の口に押し込んだのは、望むことすらできない親子の日常に嫉妬したからだったろうか。
眠る母の髪を金色に染め上げ、その耳たぶにピアスを開けたのは、ぶつけられた悪意に対する怒りの矛先を母へと向けたからだ。
わたしだけの特別な母を誰一人として持ち合わせていない。
様々な感情の最終処分場である母を持たない周囲の人間を哀れに思
母を利用することで、外側の世界と折り合いをつけていくことに少女は限界を感じてもいた。
けれど。
だとしても。
自分の体につまずいて、動きの全てがちぐはぐになる。
すぐに歩きだし、やがて立ち止まってしまった。反動のように呼吸があがって、ぜぇぜぇと苦しくなる。わたしは膝に手を当てて、ただただ呼吸を続ける。
時おり体験するこの現象を、わたしはいつも掴みそこねていた。日常の軋轢や植物状態の母を持ったこと、そういったことのもっと奥にある、これは一体何なのか。
もしかして、母は……
何も考えられない、何も思うことができない母は、もしかしたら、こんな生の連続に生きているのではないか。息だけをして生きる、この確かな実感の連続に居続けているのなら。
母はかわいそうじゃない
みじめじゃない
空っぽなんかじゃない
少女の到達した悟りを、到達せざるをえなかったその人生を、どう受け止めればいいのだろう。
少女はやがて母になる。
出産の際に、父と祖母がまっさきに美桜の容態を確認したのは、あの悲劇を二度と繰り返したくなかったからだ。
希望通りに、祖母は娘より先に逝った。
母はすべてを承知したかのように、新たな命と看取りのあとに、その命の灯を消した。
捻じれた首の植物であった母は、美しくまっすぐな首を持つ「深雪」という名の一人の女性としてその生涯を閉じた。
何も知らない母だった。
美桜の成長の過程をその瞳で追うことはなく、その瞬間瞬間に呼吸を重ねる母は植物としてただ生き、戻り還って天へと昇った。
その偉業を間近で見ていた少女は、この世の理の深部に幼いころから取り込まれていた。
その意味を、その重さを、少女は誰とも分かち合うことはできない。
大きくなった遥香に、もし母がどういう人だったかときかれたら、うまく伝えられるだろうか。長い間一緒に過ごさねばわからない、あの独特の生き方を遥香にきちんと伝えられるだろうか。
母が授けてくれたことと、母が残した業を抱え、少女はこれからも生きる。
それはありふれた命の営みであると同時に、特別な母をもつ娘が生涯をかけて挑む偉業になりゆくものだ。
わたしはきっとこれから苦労することになる。
それでもなお、母の魂とともに。
この生涯をどんな言葉をもってして語りあげることができるだろう。
この透明な愛をどうすれば絶やさずにいられるのだろうか。
物語を抱えたままに見渡せば、懐かしい植物が柔らかな風に揺れながら命の息吹を見せている。
『植物少女』朝日新聞出版
朝比奈秋/著