少女の世界はあまりに脆く、簡単に崩れ去る

横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店

『タイム・オブ・デス、デート・オブ・バース』筑摩書房
窪美澄/著

 

Unsplash(Martino Pietropoli撮影)

 

コドクシもジサツっていう言葉も物心つく頃からなんども聞いていた。だから、その言葉を聞いても私の心の中はちっともざわつかない。
お父さんが死んだときの記憶はない。だから、見て、みたかった。

 

十五歳のみかげは、かつてこんな思いを抱いていた。
そう願わずにはおれないほどの暗闇に少女は一人たたずんでいた。
けれど、それは過去という時間軸の中でだけ語られる物語となった。
もうあの暗闇で少女が立ち尽くすことはないだろう。

 

みかげと五歳上の七海は、都心にある古びた団地に二人で暮らしていた。

 

けれど、お父さんが三歳のときに死に、お母さんが十歳のときに、お姉ちゃんと私を残して家を出てしまってから、生きている人間のほうが怖いな、と思うようになった。

 

団地に出ると噂される幽霊も、変質者もおかしくなった人も、怖くないと言えば噓になる。
でも、私たちを使い古したぬいぐるみのように捨てたお母さんの方がよっぽど怖かった。
いつか私も“そう”なってしまうんじゃないかという予感と呪われた血、みたいなものが怖かった。
みかげは父の最期を見ることができなかった。記憶から零れ落ちただけなのかもしれない。けれどあれから、みかげの時計は歪んだまま止まってしまった。
みかげにとって死は実態を伴ったものではない。だって見ていないし、触れてもいない。
人が死ぬということは心とも体とも繋がっていない、遠い遠い場所で起こったフィクションなのだ。
「見たい」と願うその動機を取り上げることは、神様にだってできないことだった。

 

若き姉妹が二人で暮らしていくには、社会はあまりに冷徹だ。
みかげは、本当は七海ちゃんに頼りたくなんかなかった。
大好きなお姉ちゃんの足を引っ張るなんてことはしたくなかった。
けれど喘息持ちの体は長時間の労働に耐えられず、短時間のアルバイトをすることでしか家計を支えることはできない。
日々を生き抜くだけの精一杯の暮らしは「普通」の集団にいとも容易く弾かれた。
夜の学校に通い始めたのは誰かの助言があっただろうか。
記憶を曖昧にしておかないと壊れてしまう箇所があった。

 

子供と大人の狭間で、ままならない体と揺れる心を抱えるみかげ。
明るく振舞いながらも無理を重ね、必死で妹を守ろうとする七海。
七海のやさしさが嬉しくて苦しくて、みかげの胸はつまる。
そして、傷つけたくないと思うほどに言えない言葉が積もっていく。

 

ねえ七海ちゃん。
私はいつまで経っても弱いままだけど友だちって呼べる人が初めてできたよ。
夜の学校で出会った二人の前では素直なままの自分でいられる。
こんな風に友だちといられるなんて思わなかった。

 

疲れた顔で帰ってきても七海ちゃんはきれいだね。
熟れた果実のような体に、華やかなメイクが似合う七海ちゃんは自慢のお姉ちゃんだよ。
でもね。
この前押しかけて来た男の人に「デリヘルで働いてるくせに」って言われたんだ。
私はその言葉の意味を知らないけれど、よくないものなんだってことだけは分かるよ。
七海ちゃん。大切な私のお姉ちゃん。
私がもっとしっかりすれば、今のお仕事、辞められる日が来るの?

 

やっとの思いで築いた生活は綻びだらけだ。
その裂け目に無慈悲につけ入る存在が実の母だったとして、どうやって大人を、他人を信じればいい?

 

「みかげ!みかげ!」
自分の名前をいきなり呼ばれて、私はびっくりしておじいさんを見つめた。おじいさんが黒い大きな手のひらで手招きする。やっぱり自分のことではないだろうと、少し心が痛んだけれど無視をしていると、またおじいさんが、「みかげ!」と私の名前を大きな声で呼ぶ。

 

B棟とC棟の間からあらん限りの声でみかげの名前を呼んでいたのは、ぜんじろうという名の団地警備員をしている粗暴な印象のおじいさんだった。
友人たちは口を揃えて「怪しい」と言った。
心配をさせてしまうだけだから、七海ちゃんには言わない方がいいだろう。
でも断る理由は思いつかなかった。
渡された黄色い星のバッジを今はまだ恥ずかしくて付けられないけれど――
みかげはぜんじろうさんと団地の見廻りに繰り出すようになった。
それに、ほんの少しの邪心を抱いてもいたのだ。
もしかしたら誰にも言えない願いが叶う時が訪れるかもしれない、と。

 

ただ死を待つだけの世捨て人のように息を潜めながら生きているのは、一人や二人ではなかった。やっと開いた扉にすかさず体をねじこんで、暗く湿った空気をものともせず、大きな声とともに差し入れを渡す。
ただこれだけのことに、膨大な時間と多大な労力が必要だった。
迷惑そうに邪険にする人はまだ猶予があるのだ。
壊れてしまった老人の手を振りほどくにはどうやったって痛みが生じた。

 

意味もなく、未来にだって何も残さない無駄な時間の繰り返しなのかもしれない。
けれど「見ている」と、「忘れていない」と行動で示すことで守れる命がひとつでもあるならば、それは続ける価値のあることだと信じられた。

 

陽の下で活動することで健康的に肌は焼け、精神的な自立までも促されたみかげ。
しかし、試練は容赦なくみかげに襲い掛かる。

 

この部屋のなかに遺体があるっていうこと?
途端に口の中が乾き始めた。ええっと、私が死体を見たいと思っていたのは確かだけれど、それは飛び降り自殺とかの死体で、遠目にほんの少し、ちらりと見られればいいと思っていたのだった。ここは、類君の部屋で、私の住んでいる部屋の下で、ええっと……。

 

残酷な現実とともに、みかげはかつて抱いた願いが叶う瞬間に立ち会ってしまった。
それは想像以上の血生臭さをもって、みかげの肉体を内側から容赦なく蹂躙するものだった。
いつもお腹を空かせ、絶えない生傷から血を流しながら走り去った少年の初めて聞く叫び声が、みかげを責めるようにいつまでも響く。

 

どんなに入念に立ち廻っても完璧に掬い上げることなどできない。
老人と子供の素人集団ができることなど、たかが知れていると分かってもいた。
少し目を離した隙に、ほんの少しの甘えを覗かせた瞬間に、死神の鎌は弱き者へと振り落とされる。

 

助けてくれるはずの行政から団地取り壊しの案内がやって来たのは突然だった。
行き場などない、この場所とともに死なせてくれという人の元に、ぜんじろうさんと何度も通って話を聞いた。
こんな場所からは一刻も早く引っ越す!と息巻いていた七海に、みかげは警備員としての責務を果たすべく最後の一人が引っ越すまでこの場所に残ると説得した。

 

故郷を奪われたも同然だった。
耐え難い別れもあった。
けれど。

 

ぜんじろうさんは大切な人の命を守ることができなかったと言った。
ぜんじろうさんの無念の涙を、みかげは消して忘れないと誓う。
みかげも友人もそれぞれの傷や痛みを抱えていてなお、死の淵にたたずむ人に最後まで寄り添おうとした。
誰もが「助けてほしい」と訴えるこの場所で、切迫した暮らしに押しつぶされそうな者がひしめくここで、手を差しのべようとすることは弱者というレッテルを自ら破り捨てる勇気と決意を要した。
それは、狭い世界の中で誰かの救いを待つだけの子供という立場に留まっていてはできないことだった。

 

みかげの物語は、いつかどこかで人知れず亡くなった魂の存在を私たちに知らしめる。
少女が駆けて行った先に、本当は私たち一人ひとりが授けられている可能性や希望がたしかにあって、二度と見失わないほどの力強さでこちらへと差し出された。

 

多くを失った少女は喪失以上のものをその手に抱え、未来へと進んでいく。

 

物語は今、現実へと浸透し様々な叫びとともに私たちへと届けられた。
より一層、目を凝らして。
より深く世界の片隅で消え入りそうな声に耳を傾けて。
そんなことしか、そんなことくらいしかできない私たちは、踏み出す一歩をいつからだって変えられると知ってしまった。

 

少女がほほえむ明るい地平は、どんな場所からもたどり着けると知ってしまった。

 

『タイム・オブ・デス、デート・オブ・バース』筑摩書房
窪美澄/著

この記事を書いた人

横田かおり

-yokota-kaori-

本の森セルバBRANCH岡山店

1986年、岡山県生まれの水がめ座。担当は文芸書、児童書、学習参考書。 本を開けば人々の声が聞こえる。知らない世界を垣間見れる。 本は友だち。人生の伴走者。 本がこの世界にあって、ほんとうによかった。1万円選書サービス「ブックカルテ」参画中です。本の声、きっとあなたに届けます。

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