2022/07/15
横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店
『新月の子供たち』ブロンズ新社
齋藤倫/著
月の光が消える夜。
私たちは何度だって生まれ変わる。
物語は警鐘を鳴らすようにさんざめいていた。
「あなたのほんとうの声を聴かせて」
物語はわたしを抱きとめるため、聖母のように微笑んでいた。
「あなたのままで紡いだ歌を聴かせて」
知っていた、と思った。
ここに記された物語のすべてを。
何も知らないと思った。
わたしがここにいる理由を、意味を。
そして――いま思い出す。
わたしは旅をつづけてきただけだった。
幾千のときをこえ、たったひとつのたましいとともに。
いま再び、夢と現実が手をとり重なりあう。
きっかけは声変わりだった。
小学校5年生の令は、ほんとうの自分を閉じ込めた。
教会の聖歌隊で美しいボーイソプラノを響かせていた令にとって、それは過酷な試練のように思えた。
いや、令はこれ以前より自分のこころの声に耳を傾けなくなっていた。
自分のままで生きていくことは、やわらかな生身をさらけだして歩いていくことと同じ。
傷つくことは痛くて辛くて、こわい。
歌をやめると告げたときの両親の失望の顔を思い出す。
シスターが涙した姿が浮かんでくる。
でも、令は歌うことをやめた。
声は口から出た途端に、干からびたようにがさがさと不吉な音を立てる。
教室に響く笑い声が令の喉をさらに強張らせる。
突然放り込まれた暗がりからは、明るい光の片鱗すら見えない。
その頃、令はふしぎな夢を見るようになっていた。
夜眠っている時だけじゃない。
わずかな時間、学校の休憩時間にもすこんと眠りの世界に落っこちて、あまりにもリアルな夢を見る。
「トロイガルト」と呼ばれる独房に死刑を待つひとびとが収監されている。ひとやひとではないものもそこにはいたが、みな似たような質素な服を着ているから囚人だとわかる。
そこでは、令はレインという名で呼ばれ現実世界とは打って変わりすらすらと淀みなく声を発することができた。
けれども、声が出せたところですべては無駄だった。
死を待つだけのこの場所で、ほんとうの願いを口にすることはあまりにむつかしい。
むつかしいから考えることをやめ、だからここに辿り着いたのかもしれない。
それすらもうわからないけれど。
青錆色の熊が囚人たちを見張っている。
その背中に小さな羽根を生やしたハネクマと呼ばれる看守は、囚人たちに呪いをかける。
「おまえは だれだ」
「ぼくは、 レイン」
「そして おまえはしぬ」
「ぼくは、レインだ」
「そして、ぼくはしぬ」
朝が来るたびに思い知らされる。
ただ死を待つだけの何の価値もない自身の存在の希薄さを。
ほんとうの願いすら口にすることのできない勇気のなさを。
そもそも「ほんとう」などとっくのむかしに打ち捨ててきたことを。
しかし、その呪いを打ち砕くように響く声があった。
「おまえは だれだ」
「わたしは、シグ」
「そう おまえは シグだ」
「そして おまえはしぬ」
「わたしは、シグだ。そして」
「わたしはしなない」
どこへもたどり着けない閉ざされた場所で。
その声は、希望の光そのものだった。
夢を抱えたまま、令の現実はつづく。
不愛想だけれどその瞳の奥に真の強さを覗かせる女の子。
合唱コンクール委員で一緒になった違うクラスの男の子。
公民館で出会った、乱暴者の兄と無邪気な妹。
夢のなかで「わたしは しなない」と言える強さをもつシグは、この子なんじゃないか?
身を挺して仲間を守ろうとしていたあのひとは、このひとじゃないだろうか?
夢と現実がリンクし、トロイガルトの住人が令の現実にあらわれていく。
夢の世界もつづく。
シグとはじめて話した夜。月明りが彼女を淡く照らす。
首をふると銀色の髪が目の上を掃くみたいに横切って――
そのしぐさをレインは好きだとおもう。
「きかないことは、誰もおしえてくれない。決まってるだろ?きくことがないってことは、なにもかんがえてないってこと。疑問をもたないのは、なにもかんがえてないのとおなじ。しんでるのといっしょだ」
シグは、忘れていない。
自分自身のほんとうの姿を。自分のなかにあるほんとうの願いを。
それだけを握りしめ、この場所へとたどり着いた運命すら変えようとしている。
シグの言葉は、レインのこころを打ち抜いた。
知りたい。この場所から出られる方法を。
知りたい。しなないでいられる術を。
知りたい―――ほんとうの自分で生きていく物語を。
レインは仲間とともに、トロイガルトからの脱出を決意する。
このトロイガルトは、波のように動いているんだ。潮のように満ちては、引く。
新月の夜、星が流れるように遠ざかり、山頂がさがるのが合図だった。
しぬうんめいを受け入れた友が、それぞれが入った樽を押してくれた。
受けいれることも強さなのだろうか。
いまはまだわからずとも、この先の道で答えはきっと見つかるだろう。
そのために、踏み出すと決めたのだから。
脱出は成功したかに思えた。
しかし、ハネクマが唸り声を上げながらレインたちを追ってくる。
捕らえられたシグ。
やっと見つけた彼女が虚ろな表情を浮かべていたのは、あきらめてしまったから。
トロイガルトの宿命を受け入れ、ほんとうの自分を明け渡してしまったから。
シグの背中に白い羽が生えかける。
それはシグがこころをなくしていっているサインだった。
レインはあらんかぎりの声で叫ぶ。シグにもどってきてほしくて。
シグに、こころをなくさないでほしくて。
でも届かない。
シグのこころを取り戻すと強い決意をもって、レインはこころから言葉を放つ。
(シグ、きみは)
「だれかの、ほんとの、じぶんなんだよ」
「シグ、きみがいなかったら、じぶんがしんでしまう、ひとが、いるんだ」
令の物語も加速していく。
視界を広げみれば、そこには小さな身体に抱えきれないほどの悲しみを負った友たちがいた。
打ち明けられたのは、あまりに重くあまりに辛いものだった。
馴染まない身体に壊れそうなこころを抱えた君が、シグだったんだね。
力なき子どもには、たとえそこがどんなに理不尽な場所であっても逃げ出すことなんてできない。
失敗を繰り返し後悔の渦のなかにいる君だから、今度こそは守ると誓っていたんだね。
自らを差し出すことでしか救えない道なんて、ほんとうの道じゃないんだ。
君のやさしさはぼくたちを救ってくれたけれど、もう「しぬうんめい」なんて言わないで。
ともに、ともに。
今度こそ生きていこう。
令は、取り戻す。
レインは、こころから世界に宣言する。
「ぼくは、レイン」
「ぼくは、しなない」
傷つかないように。傷つけないように。
こころの扉を固くしめることで自分も相手も守りたいと願ったのは、大人になった証拠だと思っていた。
こんなわたしの背中にはきっと小さな羽根が生えはじめていただろう。
扉のむこう、自分だけが奏でられる美しい音色があったとして、いまさらどうやって取り出せばいい?
勇気は枯れ果て、自由という名の翼はぽきりと手折られてしまった。
置き去りにされたこころは膝をかかえ明るいところへ出ることを拒んでいる。
うしなってしまった“わたし”は、もうすべてが手遅れなのか。
レインの物語。令の夢の物語。
ほんとうの自分がのびのびと歌う姿を思い出すようだった。
ほんとうのわたしで大切なひとと手をつなぐ。
ほんとうのわたしで、わたしだけに見える世界を描く。
つづられていた夢はただ、たましいであった頃の物語そのものであった。
いま、わたしたちが生きる世界は動乱の渦中にある。避けられない破壊は、その再生の過程は、これから目に見える形でわたしたちの生活を脅かし、厳しい現実を突きつけてくることだってあるだろう。
だからこそ、こんなときだからこそ、わたしたちは自らのこころの声を取り戻さなくてはならない。
世界がどんな状況であれ、わたしは、わたしを生きるために生まれてきた。
そう、思いだすときが来たのではないか。
夢の世界にあるわたしは、現実世界へ飛び出していくそのときを待っている。
わたしがわたしのままで生きていくために。
あなたがあなたの声で奏でていくために。
そのために生まれた物語はもう手のなかにある。
『新月の子供たち』ブロンズ新社
齋藤倫/著