2022/07/19
馬場紀衣 文筆家・ライター
『性そのもの ヒトゲノムの中の男性と女性の探求』法政大学出版局
サラ・S. リチャードソン/著 渡部麻衣子/翻訳
21世紀のはじめに、Y染色体が「退化している」かもしれないというショッキングな予測が世間を騒がせた。2002年の『ネイチャー』誌に掲載された論文によれば、最初は1500ほどの遺伝子を持っていたはずのY染色体は、三億年のあいだに約50を除いて全てが不活化、あるいは失われ、全体としてみると100万年に5つの遺伝子が不活化された計算になるという。これが事実なら、人類の未来を心配せずにはいられない。なぜって、このまま退化が進めば、ヒトのY染色体はおよそ1000万年で消滅することになるからだ。
重要なのは、この予測が単に男性の消滅を予測したものではないということ。モグラネズミのようにY染色体を持たない種にもオスが存在することを考えると、Y染色体を失うことは、もしかすると人類にとって新しい性決定システムの進化を導くきっかけになるかもしれない。それでも疑問は残る。
もしY染色体が本当に消えたとして、いったい、どの遺伝子がヒトの雄性の決定経路を代替することになるのだろうか。もしXとY染色体が、私たちが「性」と呼ぶものにとってそこまで重要な役割を果たしていないとするなら、これまでの私たちの性理解は根本的に間違っていた、ということにもなりかねない。
「遺伝学者たち、臨床家たち、そして科学ジャーナリストたちは、共に、性染色体上の遺伝子が、性的二形態性の遺伝子的基質を明らかにするだろうと断言する。この見方によれば、一次的及び二次的な性的特徴に関わる遺伝子あるいは遺伝子のプロセスは、性染色体上に位置しているか、集中しているはずだ。このアプローチは、性染色体の遺伝子型の二形態性が、私たちが観察する男性的あるいは女性的身体を持つ個人の間の表現型の二形態性の基質であるか、または制御しているという期待と、極めて重要な仮説を反映している。しかし、この仮説には根拠がない。」
ヒトのXY染色体のゲノム配列を手に入れた遺伝学者たちは、これまで男性らしさや女性らしさの要素となる「性そのもの(sex itself)」を探索しつづけてきた。性を決定するメカニズムとして登場した性染色体によって、私たちはこれまで「性」を明確に異なる二元的な集団のように捉えてきたはずだが、著者は「XとYが、種の特徴的な性の二形態性に関係する鍵となる遺伝子を持っているかは疑わしい」と指摘する。
人は2という数字に弱いから、男性か女性か、犬か猫のどちらかといった具合に二つの型へ秩序化しがちである。こうした考え方が性の科学に持ちこまれた結果、性差もまた絶対的な性的二形態性として受け止められるようになってしまったことは想像に難くない。
今日、性についてのゲノム学的考えは急速に発展している。著者は、性に関する遺伝学研究をていねいに振り返りながら、ゲノム学の物質、言説といったヒトの性差をめぐる主張を分析してゆく。そのうえで、古典的なバイアス問題に限らない、ジェンダーの多面性を可能にする理論的アプローチを展開してゆく。
性の多様性が注目される現代社会で、人間はこれからどのような価値観のもとに性と向き合うべきか、あるいは、どのように性と向き合うことができるのだろうか。本書は、その道標になってくれる一冊だ。
『性そのもの ヒトゲノムの中の男性と女性の探求』法政大学出版局
サラ・S. リチャードソン/著 渡部麻衣子/翻訳