感動、絆、SNS……。「共感」が支配する世の中にうんざりしているアナタが読むべき『反共感論』

塚越健司 学習院大学・拓殖大学非常勤講師

『反共感論』白揚社
ポール・ブルーム/著 高橋洋/翻訳

 

 

政治や商売、コミュニケーションや恋愛であれ、人間にとって不可欠な要素に「共感」がある。共感は一般に「他人の経験を経験すること」と理解され、不正や苦しみに苛まれている他者を手助けする動機となる。

 

共感が人間にとって重要であることを否定する人はいない。だからといって、共感は必ずしも人を「正しい方向」に導くわけではない。読者も感じていることだと思われるが、昨今の世界は「共感」が暴走した社会と呼べるだろう。不倫や不祥事で炎上する社会の「被害者への共感」のあり方は、何かグロテスクだと人々は感じている。あるいは某国大統領の支持者が有する共感にもまた、同様の気持ちを持つ人も多いのではないか。

 

本書は共感がもたらす問題事例をいくつも挙げている。例えば1987年のマサチューセッツ州では犯罪者に一時帰休を許すプログラムによって再犯率が引き下げられていたが、一時帰休した犯罪者がレイプ事件を起こしたことで世論が沸騰し、当時の知事に対する批判が殺到したという。統計的には再犯率低下の効果があるものの、共感の力の前に政治家は為す術がない。また2011年9.11日のアメリカ同時多発テロ時に、街に出て喜んだパレスチナ人はアメリカで批判されたが、ビンラディンの暗殺が行われたと知った時に喜んだアメリカ人は批判されない。許される共感と許されない共感とは何か。

 

本書は上記のような問題含みの共感を「情動的共感」と呼び、その問題点を指摘する。確かに情動や強い感情の力がなければ、理性があっても他者に手を差し伸べる動機とはなりづらい。しかし、情動的共感は時に自制や知性の登場を遮り、限定された空間や仲間にのみ適応されがちだ。それ故に共感によってもたらされる力が、よりマクロな視点から冷静に見たときに違和感をもたらす。

 

■情動的共感がもたらす問題

 

情動的共感の問題と関連して、共感可能な範囲がある程度設定されていることに評者は思い至る。例えばイギリスの人類学者ロビン・ダンバー(1947年~)は、人が親密な関係を持てる人数には限界があると主張する。霊長類の研究等を通して彼が提案した「ダンバー数」によれば、人間が社会において親密な関係を結べるのは平均150人(100~230人)程度だという。霊長類が群れをなして生きる時の数を引き継いだ我々人類もまた、SNSにどれほど友達がいても、親密な関係を有することができるのは上記程度の数だと言えるだろう。

 

それでも文明が発達することで、一時的に「日本人」や「アメリカ人」といった単位に共感することは可能になった。しかし「日本人」といった括りであっても瞬間的な共感が関の山なのだから、イラクやシリアで熾烈を極める生活を送っている人々に対する、永続的な共感は難しいだろう。また瞬間的な情動的共感から途上国へ支援したとしても、途切れ途切れの資金援助がかえって現地住民の自立を阻むことになる。さらに、物乞いへの哀れみから金銭を与えることが、彼らを物乞いとしてのメンタリティに固定化させてしまう恐れがあると、カンボジアの人権団体の創設者は本書の中で語っている。情動には限界があり、情動が弊害をもたらすことはもっと指摘されてもいいのではないかと本書は問いかける。

 

 

■認知的に共感すること

 

情動的共感は一時的なものであり、その有効範囲も限定されている。だがやっかいなことに情動的共感は基本的に「正しい」こととされており、情動的共感を公の場で否定することは難しい。とはいえ、本書を読めばこれまでの共感によって引き起こされる問題の多くが、情動的共感によって生じるものであることがわかる。

 

そこで本書は、情動的共感ではなく「認知的共感」の重要性を提案する。それは「感情抜きに他者の心に生じている事柄を評価すること」であり、気遣いや配慮としての共感であるという。これを説明するために、本書で議論されるサイコパスについて考えよう。

 

サイコパスは認知的共感力が高く、情動的共感力が低いとされる。つまり感情抜きに他人について理解できるが、他人の感じている痛みについては分かりづらい、という状態だ。サイコパスは他者と仲良くなることができるが、人の痛みを理解することが困難であり、それ故、時に非情とも取れる行いをすることがあるという。つまり、理性では理解しても、行動の動機となるような痛みや苦しみを共有することが困難であるために生じる問題があるということだ。

 

だがどうだろう。サイコパス=犯罪者というイメージは昨今やや定着しつつあるが、情動的共感力が低く他人の痛みが理解できないことを自覚するサイコパスの中には、それ故により強い道徳的規範を有することで、社会を生きる人々も多く存在しているという。情動だけが行動の動機になるわけではない。むしろ人間が物事を学ぶ中で、知こそが行動の動機を与えることもあるということだ。

 

この事例は、情動が必ずしも他者理解に不可欠な能力、というわけではないことを教える。逆に他者の気持ちを読み取ったり、他者の経験を自分の経験とする情動的共感によって引き起こされる問題を知る我々からすれば、情動に動かされすぎず、認知(理性)の視点から共感を捉えなおそうという試みは意義深いものがある。本書の主著は、情動に支配されずに他者を理解することの重要性なのである。

 

■感情と理性のダイナミズム

 

共感問題の根底には、いわゆる理性的なものと直感や情動的なものの対立のダイナミズムが描かれている(行動経済学者のダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』で描かれる2つのシステムを思い浮かべる読者もいるだろう)。情動は強い力を発揮する動機づけとなるが、理性はそれを再度吟味する。情動も理性も、どちらも欠けてはならない、古くて新しい問題を本書は扱っている。

 

もちろん、怒りを代表とする情動的共感に根付いた行動は、まったく必要ないとは言えない。アメリカの公民権運動や女性解放運動は、認知的共感だけでなし得たのだろうか?だとすれば、健全な怒り、健全な情動的共感とはどのようになすべきなのか?このような問題は依然として我々の前に立ちはだかる大きな問題だ。しかし、だ。情動が優先する社会において、我々が為すべき事はまだある。たくさんある。本書はそのことを思い起こさせてくれるだろう。

『反共感論』(白揚社)
ポール・ブルーム/著 高橋洋/翻訳

この記事を書いた人

塚越健司

-tsukagoshi-kenji-

学習院大学・拓殖大学非常勤講師

1984年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位修得退学。拓殖大学非常勤講師、学習院大学非常勤講師。専門は情報社会学、社会哲学。ミシェル・フーコー研究のほか、インターネットの技術や権力構造などを研究。単著に『ニュースで読み解くネット社会の歩き方』(出版芸術社)、『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)。翻訳(共訳)に堀内進之介監訳『アメコミヒーローの倫理学』(パルコ出版)。その他共著多数。その他メディア出演、記事寄稿等多数。


・テレビ朝日「大下容子 ワイド!スクランブル」火曜コメンテーター。
https://www.tv-asahi.co.jp/scramble/cast/
・ウェブ連載「サイバー空間の権力論」
http://wedge.ismedia.jp/category/cyber
・Yahoo!ニュース個人「塚越健司の情報社会学・社会哲学の視点から」
https://news.yahoo.co.jp/byline/tsukagoshikenji/

関連記事

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitterで「本がすき」を