2018/09/19
藤代冥砂 写真家・作家
『随写』 禅フォトギャラリー
ジョン・サイパル/著
写真て何だろう? と考えたり、写真ていいなと感じたりした。つまり、写真と向き合うことを久しぶりにした。
手元にはジョン・サイパル君の「随写」がある。
彼と会ったのは、もう十数年前になる。事務所を神宮前三丁目から横須賀の秋谷へ移す時、片付けの大方済んだ後の旧事務所にてオープンオフィスと題した写真展をやったのだが、そこへジョンくんは数人の友人と寄ってくれた。
その時はすでに日本語も上手で、この国に住んで結構な月日が過ぎていたことだろう。事務所に所狭しと飾られた、仕事とプライベートの作品が混然と壁や床に並べられたその写真展は、今まで私が催したものの中でもおそらくベストかもしれない。アートのコンテクストやコマーシャルの流儀から離れて、かつそれらを引用したりして、消費される写真と写真によって消費される世界を提示していたのだが、そこを突く評などなく、ただある時期の東京を媒体を選ばずにとことん撮り尽くそうとしていた一人の写真家のほぼ全てがあったはずだ。
そこへふらりと現れたジョン・サイパルくんは、当時から写真への愛に溢れていて、特に日本の写真に対しては、外部の者だけが発見できる何かを確実に得ているようであった。
その彼の昨年末に出た新作は、日本の写真が世界に知れ渡るきっかけとなった七十年代の作風の影響が色濃くあり、何の気概も照れもなく、おそらく純粋な写真愛によって、出来た一冊であろうことが窺える。憧れのスポーツ選手のフォームを真似するがごとく、なんの衒いもないようだ。
そして私は、そこがこの一冊の救いだと思えたのだ。写真史の中でのプライベートフォトの可能性を一歩前に進めるつもりなどさらさらなく、ただ愛するカメラを手に、愛する人や風景や事を納めていく。その手触りがとても心地よいのだ。
サイパルくん自身が影響を受け、そして愛している写真たちからのバトンをそっと誰かに渡すような彼の作品たち。仄かに香る品の良さは、彼の人への接し方を写していると思えるし、写真へ向けられたオマージュが、世界全体へのそれへと広がっている心地よさに混じる切なさは、写真の持つ切なさと重なっている。
ゆっくりページをめくりながら、私がかつて撮ったことのあるような写真や、これから撮るような写真を見つけては、小さなため息を何度もついた。写真ていいなあ。そう思えたのは久しぶりだったのだ。
ー今月のつぶやきー
この季節は雑草の激しい伸びにが悩ましい。しばらく家をあけて
『随写』 禅フォトギャラリー
ジョン・サイパル/著