共生教育についての考え方(2)
岡嶋裕史『大学教授、発達障害の子を育てる』

 

近代国家がベースとする倫理とそこから導かれる障害者教育について、何回かにわけて考えている。前回は功利主義だった。功利主義は「最大多数の最大幸福」が有名で、それを実現する手段として選挙がある。

 

いまでも功利主義の考え方は社会の至る所で採用されているが、批判があるのもまた事実である。最たるものは幸せの総量、すなわち組織や集団の利益が優先されることだ。たとえば、空港やダムを造ることに巨大な利益があるとき、もとからそこにいた住民に転居を強いるようなケースがある。

 

全体としては、空港やダムを造った方がいいことはわかっていても、自分が立ち退かされる側に立つとしたら、たまったものではない。全体の利益のためになぜ自分が犠牲にならねばならないのだ、と恨みもするだろうし、合理的な額の見舞金をもらっても、気分がすっきりするたぐいの問題ではないのだ。割を喰う人が、特定の属性を持つ人、たとえば少数派だったり、発言力の小さい人だったり、に偏る傾向もある。

 

また、功利主義は結果がすべてである。「最終的には、みんなが豊かになるから」、「全体として考えれば、これが得だから」という理由で意思決定をするのだ。だから、選択が正しかったかどうかは、結果が出てからでないと正確には評価できない。経済波及効果が10兆円あるからといって開始を承認されたプロジェクトが、実際には赤字になることなどはよくある話である。

 

だから、事後的に考えてみれば間違った選択をしてしまうこともあるし、事前の見積もりでうまいこと嘘をつけば、人々を誤った方向へ導くことすらできる。

 

こうした問題点を受けて、意思決定への別のアプローチがいくつも試みられている。自由平等主義は、その先鋒だろう。人間ひとりひとりを特別な存在として捉え、その権利を尊重することを中核に考える。

 

ひとりひとりが特別な存在であるから、たとえば「全体の利益のために誰かが犠牲になるべきだ」といった考えは否定されることになる。その地に空港を作ることが全体として大きな利益を生むとしても、そのために長く親しんだ土地を心ならず離れる羽目になる人などが現れてはいけないと考える。

 

また、特別な存在としての個人を尊重するのは、事前に確定することができる。「人は特別な存在だ。だから思想・良心の自由を侵害してはならない」、「死刑にしてはならない」は、何かの結果を参照しなくても、導くことができる。これは、「○○のほうが、××だけ得(のはず)だから、○○の選択をしよう」と発想する功利主義と比べて際立っている。功利主義は「後から考えると、あの決定は間違っていた」ことがあり得るが、自由平等主義にはそれがない。

 

近年の共生教育や混合教育にも、自由平等主義は大きな影響を及ぼしている。ひとりひとりは特別な存在なので(障害者はそこに含めてもらえないことも多かったが、近年は「特別な存在」の枠が広がっている)、教育制度一般から除外されてはいけないし、その能力を最大限に発達・発揮させて社会に参加できるしくみを整えようとするのである。基本的には、健常児と障害児ができるだけ同じ場で学ぶ方向を目指している。

 

親の立場で考えると、「有り難いなあ」とは思うのである。ぼくの子も幼稚園で、イベントなど外部の人の目に付く機会には出席を控えて欲しいと言われたことがあるし、特別支援教育では算数、国語や生活にカリキュラムが偏りがちである(表記上そうではなくても、運用でそうなっていることが多い)。

 

もちろん、全体のキャパシティを考えれば、生活に即必要になってくるお金の計算や、最低限の漢字を読めるようにするのは、誠実な教育の態度だと思う。でも、自閉スペクトラムの子は、地図マニアだったり、生物フェチだったり、社会・理科こそが好きな科目だったりすることも多いし、地図くらいは読めてもいいのではないかと思う。就学期間や就学体験も限られるなかで、できるだけイベントなどの経験も積ませてやりたいのが人情である。

 

そう思うと、健常児と一緒に4教科、5教科の授業やイベントに参加させてもらえるのは、有り難いのだ。

 

でも、全体の利益を考えると、歪みを生みかねないやり方だとも思う。先にも述べたように、健常児のクラスに障害児を混ぜることは、健常児の教育効果を削ぎかねない。教員の立て方にもよるが、障害児にとってもS/T比が悪化してこれまた教育効果を削ぐ可能性もある。健常児が障害児に触れること、障害児が健常児に触れることで、精神的な成熟が得られる効果もあるだろうが、比較考量するのは難しい問題である。

 

また、人は必ず同じ属性の者同士で群れる。

 

身も蓋もない話だが、私の専門分野であるインターネット上での人の行動は、確実にそれを示している。だから、同じ属性の人同士で閉鎖空間を簡単に構築できるSNSに、みんなあれだけ時間を使うのである。

 

この行動特性は、学校のクラスでも同様だろう。健常児と障害児は、やはりとても違う。1つのクラスにまとめたところで、行動単位としては健常児のクラスタと障害児のクラスタに分かれるだろう。それが自然である。

 

この原則を無視して、両者を強引に混ぜるようなクラス運営をすれば、特定の健常児に大きな負担を強いるか、教員の見えないところで障害児がいじめられるようなインシデントが容易に発生するだろう。

 

このやり方がダメとは思わないが、よほどの覚悟と準備がないとできないクラス運営方法で、現時点での取り組みを見ると、「よほどの覚悟と準備」をしている機関はあまりなさそうなのである。

 

少なくとも、教育の現場では実利を無視することはできない。少なくとも理念だけで導入して、子どもたちの(それが健常児であれ、障害児であれ)教育効率を大きく下げるようなことがあってはまずい。これは、自由平等主義全般が批判されるポイントでもある。

 

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下記よりお送りください。

 

大学の先生、発達障害の子を育てる

岡嶋裕史(おかじまゆうし)

1972年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学准教授・情報科学センター所長を経て、現在、中央大学国際情報学部教授、学部長補佐。『ジオン軍の失敗』(アフタヌーン新書)、『ポスト・モバイル』(新潮新書)、『ハッカーの手口』(PHP新書)、『数式を使わないデータマイニング入門』『アップル、グーグル、マイクロソフト』『個人情報ダダ漏れです!』(以上、光文社新書)など著書多数。
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