お箸を使う練習
岡嶋裕史『大学教授、発達障害の子を育てる』

 

そろそろお正月である。

 

この季節になるとつい気が緩んで、いつもなら「変に思われるからやめよう」と思っているものを、「自分へのご褒美」などと言い訳してつい頼んでしまう。具体的には、海老なし海老そばや、天ぷら抜きの天丼などだ。マロニーしか入っていないしゃぶしゃぶも素敵である。

 

別にふだんから食べたっていいのだが、大人になるとやはり人目があるし、そもそもこうした食べ物はコミュニケーション的にハードルが高いのである。お店の人を戸惑わせるのも心苦しいし、「えっ、海老そばを海老抜きで? 当店の海老に何か問題がありますか?」とか、「タンメンもありますよ」といった善意の提案に対して、何か適切な返答を用意しておかなければならない。いくつか会話をシミュレーションして、「うん、やめておこう」となる。うまくいかないシミュレーションは得意なのだ。むしろ、うまくいかないことに安心するまである。

 

運動会(苦手である)の前の日は、不安を和らげるために脳内シミュレーションを施すが、そのシミュレーションでうっかり勝ってしまったりすると面倒なことになる。当日、そんなにうまく物事が転がるはずはないので、シミュレーションと現実に大きなギャップが生じることが予想される。そんな事態は許容できないので、もう一度シミュレーションを開会式からやり直すことになる。

 

ぼくの子は、子どもなのをいいことに海苔巻きせんべいの海苔だけを食べたりしているが、そんな家庭もこの時期になるとおせちのことを考える。子育てをしていると、食育うんぬんという話はよく聞くし、一通り行事っぽいことも経験させたいので、おせちはちゃんと作っていたのだが、ここ数年はやめた。

 

ぼくも子どももおせちっぽいものが好きではないのだ。なので、いまお重にはプラモデルみたいにカリカリになったベーコンが海のように敷き詰められている。二人とも大好きなのだ。

 

でも、おせちを見ると黒豆を思い出す。

 

ぼくの子は不器用なので、お箸がちゃんと使えない。で、療育でさんざんお箸の使い方を練習することになったのだが、そのときの教材で黒豆が出てきたのである。

 

ちなみにぼくもお箸は苦手だ。Eテレでパソコン講座をやらせてもらったことがあるので、芸能人の方と会食する機会が何回かあったが、みんな食事の作法も食べた後の食器も、嘘みたいに美しい。訓練された人の有り様って綺麗だな、と思った。他人の絶技を堪能した後で自分の皿を見ると、阿鼻叫喚の事態になっているので、ますます自分が嫌になる寸法である。

 

なので、全然子どものことは言えないのだが、まるで自分は美しく箸が使えるような顔で子どもを指導するのだから、業の深いことである。まあ、教員などというものは、昔の自分がまったくできていなかったことを、さも当たり前のように学生に指導するのだ。因果な商売である。

 

さいしょのころは、何十回かのチャレンジも虚しく、ころころと黒豆が転がるだけの毎日だった。いっそ、そんな遊びをしているかのようだった。

 

でも、そのうちころころとは転がらなくなった。お箸が使えるようになったのか? そんなにいい話になるはずがない。まず、指でつまんで食べ始めた。うん、お箸がダメなら別の道具で代用する、たぶん問題解決手法としては間違っていない。しかし、それでは練習にならないので、指の使用は禁止した。

 

すると、お箸で豆を潰してつまみやすくしてから、にぎり掴みでおもむろに食べ始める。うん、それも問題に対するアプローチの1つではある。でも、お箸の練習にはなっていない。

 

あんまり失敗させ続けるのも、学習のモチベーションを下げるのではないかと思って、チャレンジする物体を黒豆以外のものに変えてしまったのだが、この前見たら、黒豆を器用に食べていた。もちろん、隙さえあれば楽して手づかみしようとする癖は直っていない。

 

ぼくも、中学生になるまでちょうちょ結びができなかった。自分には一生無理かなと思ったこともある。でも、20代のときに船舶免許を取った(ライセンスマニアなのだ)。もちろん、もやい結びの課題もあった。人は長じて時間さえかければ、いろいろできるようになるのだなあと思った。

 

でも、落水者救助訓練では、船を落水者(に見立てたブイ)にぶつけてしまった。スクリューで頭を粉々にしてしまうパターンである。だから、ライセンスはとったものの、自らと周囲の安全のために決して使ってはいない。

 

発達障害に関する読者の皆さんのご質問に岡嶋先生がお答えします。
下記よりお送りください。

 

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