これは本当に発達障害なのだろうか?
岡嶋裕史『大学教授、発達障害の子を育てる』

BW_machida

2020/06/25

 

 日本の医療の現場で使われている診断基準は概ね、アメリカ精神医学会のDSMシリーズだと思う。そして、これは出版される度にわりとぽこぽこ内容が変わるのだ。以前にも記したことがあるが、この連載もそろそろ終わりなのでもう一度まとめておこうと思う。

 

 DSMシリーズの現在の最新版はDSM-5である。ぼくがいちばん療育に時間を割いていた時期は、ちょうどDSM-5が出た頃だったので、まだまだDSM-IVが幅を利かせていた。当時の会話や診断などはそのまま書いているので、この連載の内容といまの医療現場で交わされるやり取りはズレが生じていると思う。

 

 たとえば、DSM-IVの内容はこんなふうだった。

 

(大分類)
 通常,幼児期,小児期,または青年期に初めて診断される障害
 (中分類)
  精神遅滞
  学習障害(LD)
  運動能力障害
  コミュニケーション障害
  広汎性発達障害
   自閉性障害(小分類)
   レット障害(小分類)
   小児期崩壊性障害(小分類)
   アスペルガー障害(小分類)
   特定不能の広汎性発達障害(小分類)
  注意欠陥及び破壊的行動障害(ADHD)
  幼児期または小児期早期の哺育、摂食障害
  チック障害
  排泄障害
  幼児期、小児期、または青年期の他の障害

 

 これがDSM-5では、このように置き換わっている。

 

 (大分類)
  神経発達障害群
  (中分類)
   コミュニケーション障害群
   自閉症スペクトラム障害
   注意欠如・多動性障害
   限局性学習障害
   運動障害群
   他の神経発達障害群

 

 一見して、だいぶすっきりしている。細かな小分類が廃止されて、広汎性発達障害の中に自閉性障害やアスペルガー障害があるのではなく、自閉症スペクトラムは自閉症スペクトラムである、とまとめられた。

 

 実際、小分類は加齢とともに移行することも多いと思うが、一度診断がついてしまうとそれを永遠に背負った気分になるし、自閉性障害もアスペルガー障害も本質的な差違はないと思うが(だからDSM-5ではまとめられた)、保護者の立場だとどっちに分類されるのかはやきもきするところだと思う。より、「現実の生活で困っていることは何か」にフォーカスした分類になって、よかったと思う。

 

 スペクトラム(連続体)という概念が導入されたのも、DSM-5の特徴だ。重い自閉症の子も軽い自閉症の子も、定型発達の子も地続きであって、程度の差である、という考え方だ。DSM-5として明文化される前から、けっこう普及していたと思う。何か閾値のようなものがあって、そこを超えると定型発達、手前側は障害児とばっさりやれるわけではないと考える。これは知的能力障害などにも導入され、知能指数が70を下回ったから知的能力障害と断じるのではなく、生活でどのくらい困っているかを重視して判断する。

 

 障害を持つ子にとっては希望のある考え方だが、境界領域にいる子にとっては進路などを決めるときに迷うことにもなったと思う。もちろん、人生で手にする選択肢は、多いに越したことはないが。

 

 また、障害を持つ子は、実際にはいくつかの特性を併せ持っていることが多いと思う。DSM-IVではより重いほうの症状が採用され、たとえば自閉性障害の診断がつけば、ADHDの診断がつくことはなかったが、DSM-5の基準だと両方がつく。本人に即したサポートをより行いやすくなったと言える。

 

 診断基準の緩和も大きなトピックだろう。たとえば、ADHDを発症するのは7歳までと定められていたが、DSM-5では12歳までに症状が出ていたと認められれば診断がつくようになった。

 

 サポートを必要としている人に、きちんとしたそれが届きやすくなった反面、ちょっと懸念していることもある。いわゆる「大人の発達障害」だ。

 

 大人になってから、発達障害の診断がつくケースである。

 

 発達障害はその定義からいっても、大人になってから発症することはない。先天性の障害である。

 

 発達障害は、当事者だったり、学校の現場にいたりすると避けて通れない話題なので、世界を埋め尽くすような話題に感じられるが、一般にさほど知名度が高い障害ではないだろう。特に家庭に困難を抱えているようなケースでは、医療情報にアクセスできないことも多い。発達障害であっても、そういう障害を知らない人は大勢いる。

 

 そうした人が生きづらさを抱えたまま成人し、何かのきっかけで受診・診断に至る事例はあると思う。スタートは少し遅れたかもしれないけれど、適切なサポートが得られると良いと思う。

 

 一方で、これは本当に発達障害なのだろうか、というケースも目にするようになった。マスコミなどが多く取り上げてくれるようになったので(知識が広く行き渡るのは良いことだ)、そうした障害を知り、自分もそうではないかと配慮を求めるケースである。学生さんでも割といる。

 

 基本的にいまの障害に対する考え方は、困ったことがあれば障害、日常生活に困難がなければ仮に障害のように見えてもそうではない、という発想なので、配慮を求められれば対応をする。軽めの症状でも、困難を覚えている人にとっては生活上の重大なハードルであるから、サポートへのアクセスは積極的に行うべきだ。

 

 でも、たとえば自閉スペクトラム症であれば、その定義である「対人的、情緒的関係に困難がある」とか、「常同的または反復的な行動」などが観測できず、本人がそうだと思い込んでいるのではないかと疑問をもつ事例が増えているように思う。

 

 ひょっとしたらその子にとって必要なサポートとは、比較的そうしたものを出してくれやすいお医者さんを探してドクターショッピングをし、診断書や薬をもらうことではなく、学習の習慣をつけたり、友だちと接する時間を少しずつ増やしたりすることなのかもしれないのに、「発達障害」というよさそうな診断に飛びついて、取り敢えずの心の安寧を求めてしまっている感触である。

 

 マスコミがフォーカスする発達障害像も、軽症例へシフトする傾向がある。中には、にわかには発達障害には見えないものも含まれているように思う。そのため、「発達障害とは本当にサポートする必要がある障害なのか」、「単にわがままな子を発達障害とカテゴライズしているだけなのではないか」などの言葉も聞かれるようになった。

 

 困っている人がいればサポートするべきだから、「発達障害」が包含する範囲や、その言葉の認知が一般へ広がっていくのは良いことだと思う。多様性を謳う社会の中で、その片隅でもいいから、居場所が作られていくといいと思う。

 

 一方で、用語が普及する過程で、その意味の拡散と独り歩きが発生するのもまた避けられない。これは本当に悩ましいところだ。発達障害の子は本当にサポートを必要としているのだが、認知が進む中で「この人たちにサポートの必要はない」と断じられないと良いと思う。

 

大学の先生、発達障害の子を育てる

岡嶋裕史(おかじまゆうし)

1972年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学准教授・情報科学センター所長を経て、現在、中央大学国際情報学部教授、学部長補佐。『ジオン軍の失敗』(アフタヌーン新書)、『ポスト・モバイル』(新潮新書)、『ハッカーの手口』(PHP新書)、『数式を使わないデータマイニング入門』『アップル、グーグル、マイクロソフト』『個人情報ダダ漏れです!』(以上、光文社新書)など著書多数。
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