インターネットは公平ではない。格差を固定し強化する【第1回】岡嶋裕史
岡嶋裕史『インターネットの腐海は浄化できるのか?』

かつてインターネットがユートピアのように語られた時代があった。そこは誰もが公平に扱われ、対等な立場で建設的な議論ができる場のはずだった。しかし現在、そんな戯言を信じる者はいない。ネットは日々至る所で炎上し、人を騙そうという輩が跋扈し、嘘の情報であふれている。黎明期から知る人間は誰もが思うはずだ、「こんなはずではなかった……」。ネットはいつから汚染された掃き溜めのような場所になってしまったのか? それとも、そもそも人間が作り、人間が関わる以上、こうなることは約束されていたのか? 黎明期からネットの世界にどっぷりハマってきた、情報セキュリティの専門家である中央大学国際情報学部開設準備室副室長の岡嶋裕史氏が、ネットの現在と未来を多角的に分析・解説する。

 

 

インターネットは議論に向いていない

 

インターネットは透明で公平なネットワークだ、そういうことになっている。

 

これは日本で商用インターネットが解禁になったころから共有されている幻想である。私的な話で恐縮だが、私の出身大学(学部)は情報学がカリキュラム上の一つの柱になっていて、整ったインフラが売りだった。

 

開学は1993年。私はこの年に一期生としてその学部に入学するのだが、ぴかぴかのLANケーブル(10BASE2、今となっては考古学的な価値がある)とジョブズがアップルを追い出されて作ったNeXT STEPの端末が印象的だった。

 

1993年というのは、まさに日本でインターネットの民間利用が始まったタイミングで、新規学部でも各端末がグローバルアドレスを持ち、インターネット接続を行うことができることになっていた。

 

なっていた、というのは、確かにインターネットに接続はできるのだが、まだ何にもコンテンツがなくて、せいぜい知り合い同士で学内メールをやり取りするのが関の山だったからだ。それは別にIP(インターネット・プロトコル。ネット上でのデータ通信の方法を定めた規約のこと)を使わなくても、当時のNetBEUI(構内接続用の通信手順)だけでも実現可能なことだった。

 

しかし、ある以上は使いたくなるので、積極的にサービス提供を始めていた朝日新聞のウェブサイトを眺めに行きながらポーカーをやったり(当時としては潤沢だったのだが、学部全体で10Mbpsの接続だった。記事に画像などあった日には、全部表示されるまでに余裕でコーヒーを沸かす時間があったのである)、ホワイトハウスがなぜか定期的に自分のところのコーヒーメーカーの様子をアップしていたので、うちの大学のコーヒーメーカーよりだいぶ高価そうだなあ、などと考えていたりした。

 

実態はそんなふうだったのだが、学部の鼻息は荒かった。事務局的には最新鋭の機材を入れた自負があったろうし、何よりすごかったのはお年を召した教授達のユートピア論だ。

 

「インターネットは世界を変える」そういうことになっていたらしい。実際にインターネットは、この後世界を変えることになるのだが、私が授業で教えてもらったのはもう少し異なる文脈だった。

 

「インターネットではすべてが公平だ」、「今まで受信者の立場に甘んじていた一般大衆が、発信者の立場に立てる」、「物理的距離を超克して世界中の人と議論ができる、友だちになれる」、「すべてがオープンになり、価値のある情報が世界中に行き渡る」、先生達の主張を聞いていると、なんだか桃源郷に至った趣すらある。実際、先生達はそう思っていたのだろう。ついに直接民主制が実現するというビジョンを熱っぽく語っていた先生もいた。

 

しかし、私は(もともと懐疑的で友だちの少ない人格なのだ)ちょっと眉につばを付けてしかその話を聞くことができなかった。

 

インターネットは確かに世界中を結ぶ。相互接続性という意味において革新的だった。しかし、規模を狭域に絞ればネットワークというインフラや、その上で稼働する掲示板、フォーラムといったサービスはすでに存在していた。私はゲームの攻略情報を求めてそこにどっぷり浸かっていたクチだったが、不特定多数の人が自由に発言できる場というのがそんなにいいものには思えなかったのだ。

 

自由な発言は場を荒らす。100人の利用者がいて、99人が品行方正な使い方をしていたとしても、悪用する1人がいるだけで長期的にはそのサービスは荒れる。匿名、記名はこのときあまり関係がない。

 

そもそもインターネットにはそれほどの匿名性がない。自明と言えば自明である。インターネットとは通信のインフラであって、放送のインフラではないのだ。通信というのは、送信元と送信先を特定することによって成立するコミュニケーションである。インターネット接続ができるということは、自分も相手も何らかの技術的情報によって特定されているということである。匿名であれば通信ができない。

 

それでも、インターネット通信が匿名で行われていると信じられているのは、インターネット上で利用者(正確には端末)を特定するための情報がIPアドレスと呼ばれる無機質な32ビットの数値で表現されているからである。名前が出ない、住所が出ない、この安心感が2ちゃんねるなどの文化を生んだと言える。

 

しかし、電話番号から住所や氏名を解決することがそれほど難易度の高い作業ではないことと同様、IPアドレスもどこかでは住所や氏名に紐付けられている。私たちのほとんどはISP(インターネット接続事業者)を通じてインターネットに接続しており、ISPは契約時にこれら個人情報を取得した上でIPアドレスを付与している。

 

したがって、インターネットというのは、思ったほど匿名の空間ではないのだが、現象面においては多くの利用者はこの点をあまり気にしていない。リテラシの不足で匿名を信じている人にとっては、そこは匿名の空間だし、各種の名前解決(名前と実体を結びつけること。電話番号を利用者名に解決したり、IPアドレスをスマートフォン〈ひいてはその所持者〉に解決したりする)によって足はつくものなのだ、と理解している人も、荒らすときは荒らす。

 

2016年に、田中辰雄氏の素晴らしい研究があった。掲示板利用者の性向を定量化したのである。『ネット炎上の研究』(勁草書房)としてまとめられているので、詳しくは原著をお読みいただければと思う。ネットの議論は極端に振れることが多い、それは何故か、ネット利用者というのはそんなに極端な意見を保有していて、付和雷同しやすいのかといった問いを立てた本である。

 

この問いに対して、田中氏はNOであると主張する。ネット利用者も(当たり前のことだが)リアルな世界を生きている一般利用者と同じように、たとえば少数の左よりの意見の人がいて、同じく少数の右寄りの意見の人がいる。そして、そこにサンドイッチされる中道の大きなマジョリティが存在するのである。

 

しかし、ここでひとたび議論が起こると、ネットには左か右か極端な意見しか存在しないような見え方をする。マジョリティは発言しないのである。そもそも、中道的なマジョリティはおとなしく控え目で積極的な発言をしない人が多く、さらには匿名が信じられている空間で議論が生じ、場が荒れると、すぐに退出してしまうのである。

 

それはそうだろう。バランス感覚の良い人は、いつまでも荒れた議論の場になどいたくない。退出がしやすいネット環境であればなおさらだ。私だって嫌だ。私は人に怒られるのが怖いので、リアルな会議でもほとんど発言しない。ネットで議論など何をかいわんやである。ネットでまで人に怒られたくはないのだ。

かくして、この荒れた言説の場で、最後まで発言をし続けるのは極端な主張を持っている人ということになる。彼らはメンタルが強かったり、単に人の話を聞いていなかったりして、荒れた場でも発言を維持する力量が高いのだ。

 

経験的には知られていた事実だが、これを定量的に示したことで、田中氏の論考は高く評価されるべきだ。

 

ただ、一つ違和感があるのは、この論考のかなりの部分を「インターネットでいかにより良い議論をすべきか」という点に田中氏が費やしていることである。その過程で、サロンと呼ばれるハーフクローズドなサービスの提示などがなされるのだが、私はそもそもインターネットというインフラは議論になど向いていないと思うのである。

 

どんなサービスやアプリケーションを載っけようとも、遠隔地、非同期の通信は議論には向いていない。それは、インターネットの挫折でも何でもなく、単にインフラとしての特性だと思う。田中氏は私が90年代の初期に教えてもらった先生達のように、ユートピアとしてのインターネットが念頭にあるように見えるのだ。

透明で公平で誰もがアクセスできる言説空間は残念ながら荒れる。公園の公衆トイレはあまり綺麗ではない。ホテルのように、アクセスが制限され、適切に管理された環境があって、はじめてトイレを綺麗に保つことができるのである。

 

先にも述べたが、このことはPC-VANやパソコン通信の時代に経験的にわかっていたことなので、インターネットの商用黎明期にも、気の利いた管理がされている掲示板やフォーラムであれば、必ずモデレータがおかれて議論の方向性をリードしたし、そもそも匿名での書き込みを許さないフォーラムも多かった。

 

しかし、インターネット利用者の拡大とともに、モデレータをおけるような余裕は失われていった。利用者もまた、擬似的な匿名を享受できる掲示板を選んだ。その最たるものが2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)である。

 

2ちゃんねるのことを批判したいわけではない、今では昔日の影響力を失ったが、一つの時代をつくったサービスであり、巨大な影響力も持った。外部からは無法地帯のように言われることもあるが、少なくとも2ちゃん内では自治がなされて、それなりの秩序がある。

 

しかし、決して議論を深めたり、高めたりする場所でないことも、また事実である。すべての発言が担保される公平な場所は、公平に荒れて、公平に炎上するのだ。

インターネットの腐海は浄化できるのか?

岡嶋裕史(おかじまゆうし)

1972年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学准教授・情報科学センター所長を経て、現在、中央大学国際情報学部教授、学部長補佐。『ジオン軍の失敗』(アフタヌーン新書)、『ポスト・モバイル』(新潮新書)、『ハッカーの手口』(PHP新書)、『数式を使わないデータマイニング入門』『アップル、グーグル、マイクロソフト』『個人情報ダダ漏れです!』(以上、光文社新書)など著書多数。
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