ryomiyagi
2020/11/04
ryomiyagi
2020/11/04
この季節になると、抗ガン剤治療を思いだす。毎年のように。
空が高くて、空気がひんやり冷たくて、ブドウがおいしい。
私は抗ガン剤治療中にブドウをたくさん食べた。
抗ガン剤を打って一週間は、吐いて吐いて吐きまくるので、吐いてもきもちわるくないものを食べるのだ。くだものとか、ゼリーとか。
私は2009年11月1日から、FECという赤い薬を打っていた。ほんとうに、赤い色をしている。
あの赤色の液体が全身をめぐる。まさに毒物という感じ。
<毒をもって毒を制する抗ガン剤>は、全身の毛と体力を私から奪った。
「生きている」そのギリギリのところへ打つのが、抗ガン剤だから。そうでないと、効かない。そしてそのギリギリに耐えて耐えて耐え抜いた先に、<次の時代>は待っている。新天地を目指しても、すぐには行けない。時間がかかる。
11月、空気ひんやり、抗ガン剤、ブドウ・・・そしてこの季節になるともう一つ思い出されるのが、小田和正さんである。年末には恒例の、「クリスマスの約束」=略して「クリ約」があるから。
前回(バブル外伝・第7回)に、私が編集者として会社に残した最後の本は『アレックスと私』だと書いたが、もう一冊あった。『小田和正ドキュメント』(2012年・幻冬舎刊)。おそらく日本でいちばん長い時間、小田和正氏の取材をしてきた音楽ライターの小貫信昭さんが、50代、60代の氏を追ったノンフィクションだが、この仕事が始まってまもなく私は退社を決意した。小貫さんがまだ全編を書き終えておらず、インタビューが続いていたあいだ、私も取材に同行した。アリーナツアー、東京ドーム公演など、そして「クリ約」収録にも立ち合った。
「クリ約」はみなさまご存知のように、小田さんとその仲間たちが集い、その日かぎりのオリジナルアレンジを聴かせてくれる音楽番組(TBS系)である。この日のために何カ月も前から楽曲のセレクト・アンサンブルの編成等に取り組んでおられる小田さんはハーモニーの魔術師となって、毎年そこでミュージシャンたちと作り上げるハイレベルな合唱や合奏はどれも、ほかでは聴けない格別の「クリ約」ワールドを生み出している。
「こんなにフラフラな身体なのに、音楽だけは浸み込んでくる」
ふしぎだなあ、とあのとき私は思った。
「クリ約」収録の帰り道、小貫さんと総武線に揺られながら、窓の外に冷たい空気を感じていた。自分はこの先どうなるのだろうか、このまま死ぬ気はしないけれど、ふつうに暮らせるようになるまでいったいどれくらい時間がかかるのか・・・不安でいっぱいだった。
そのようにして私の退社と闘病を挟んで製作された『小田和正ドキュメント』、途中から行動を共にしていた、会社の後輩編集者だった日野淳さんが、最終的にかたちにしてくれた。
本が出来上がったときには小貫さん、日野さんと、ツアー先へ出掛けた。写真はそこで撮った一枚。本づくりの過程で丸坊主になった私の髪は、ショートカット程度に伸びている。
去年のライブで再会した小貫さん、いまは新しい出版社「水鈴社」から新刊が出るところ。日野さんもすでに独立、新しい出版社「口笛書店」を立ち上げている。私は・・・といえば当連載に書かせていただいているように、退社十年が過ぎ、わが編集者時代を一冊にまとめた。みんなそれぞれ<次の時代>へ進んでいる、コロナ元年11月。『小田和正ドキュメント』を作った頃からだいぶ時間が経ったことを感じながら、窓を開ける。
「おれ、よく見るんだよね、空を」
ボソッとつぶやく小田さんの声を、見上げた空に重ねた。
『バブル』
山口ミルコ / 著
illustration:飯田淳
毎週水曜日更新
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