「ここがあるから引っ越しを決めた」浅川さんと、おいしいパンと、新しい出会いの話。
小澤典代『日用美の暮らしづくり、家づくり』

いつ頃からでしょうか、いわゆる観光地でなく、特に有名な場所ではない土地に、魅力的で求心力を持つカフェやショップが日本各地に登場するようになったのは。知る人ぞ知るそうした店は、口コミで噂が広がり、やがてそこを目指して足を運ぶ人が増え、街のランドマーク的な存在として注目を集めることになります。そしてそこには、必ず素敵な人がいるのです。

 

浅川あやさんが、二宮という神奈川県の小さな町に居を構えようと決心した理由のひとつには、そうした店や人の存在がありました。

 

「鎌倉に住んでいる頃から美味しいパン屋さんが二宮にあると、友人や知人から聞いていたんです。そんな折、大好きなアーティストの展示会が催されていることを知り、訪ねてみました。その時は山下さんには会えませんでしたが」

 

山下さんとは、パン屋とカフェが一体となった「ブーランジェリー ヤマシタ」を営む山下雄作さんのこと。あやさんは、2018年の3月に鎌倉の家を引き払い、家づくりのために二宮に引っ越しました。そして直ぐに、ヤマシタに通うようになります。

 

カフェも併設されているブーランジェリーヤマシタ

 

「山下さんは普段厨房におられるので会う機会がなく、すれ違いが続いていました。だけどある日、山下さんのフェイスブックに『あやさん、ようこそ二宮へ』という書き込みがあったんです。ビックリしたけど嬉しくて、パンを買いに行って名前を告げ、奥から山下さんが出てきてくれて、お互いに、やっと会えた~! という初対面でした(笑)」

 

まるで、恋い焦がれた人に会えたような出会いから始まったお付き合い。二宮に暮らすようになったあやさんにとって、ヤマシタと山下さんは、なくてはならない存在と言えます。

 

「二宮にはカフェと呼べるような店が少ないんですよね。今までは、自分の趣味に合う店がまわりにある環境でしたから、そうした店や人がまったくない土地で暮らすことはけっこうキツイなぁ、と思っていたんです。自然に囲まれた、気に入った物件を見つけはしたけれど、ヤマシタがなければ二宮に住むことを決断できなかったと思います」

 

住む場所に対するあやさんの考え方は、よく理解できます。日々は、ただ眠って、食べて、仕事をするだけで過ぎて良いわけではなく、自分の好きな世界を膨らませることが一番大切です。その膨らませるための要素が傍にあるか否かは、とても重要。鎌倉と二宮の距離は、電車で30分ほどです。そんなに遠く離れたわけではないけれど、近所に親しめるモノ・ヒト・コトがあることは、どんなに心強いでしょう。

 

「ヤマシタでは、気に入った作家の展示も多く、音楽会などのイベントにも参加しています。それに山下さんが、いつも店に来ている誰かしらを紹介してくれるので、どんどん知り合いが広がっています」

 

山下さんは、都内で家具店の店長をしていた経験を持ちます。その頃は、消費することに楽しさを求める暮らしをしていたと語ります。

 

「しかし、ある人との出会いをきっかけに、そうした暮らしへの価値観が変わりました。生きることの意味を、ちゃんと考えたかった。子どもがいるので、育つ環境も大事です。食も重要なことで、以前デンマークで暮らしていたこともあって、パン職人というイメージが自然と降りてきたんですよ」

 

斯くして、山下さんのパン職人への修行は3年間におよび、無我夢中でパンの勉強と技術の習得に励み、2014年に「ブーランジェリー ヤマシタ」をオープンさせます。現在では、二宮だけでなく他県からも訪れる人の多い人気店に成長させました。

 

「お客様には、ここにあるすべてを愉しんで持ち帰っていただけたら嬉しい。目に見えるものだけでなく、心をあたためるものを提供したい。作家ものの展示や音楽会などのイベントを行っているのはそのためです」

 

息子の学君も「ブーランジェリー ヤマシタ」のパンが大好き

 

ヤマシタに集う人のなかで、もう1人、あやさんが二宮に暮らす決心に関わりを持った人がいます。映像作家の松永勉さん。

 

「松永さんとは、息子の楽(がく)が通っている逗子の海で遊ぶクラブで知り合いました。海という自然のなかで、子どもも大人も一緒に本気で遊び育ち合うコミュニティ。松永さんは、その活動を映像で紹介する仕事もされています」

 

一目見て、自由人である印象を与える松永さん。

 

「僕も鎌倉から二宮に、浅川さんとほぼ同時期に越してきたんです。6年ほど前から、この近くに田んぼを持っていて、鎌倉から通うのは何かと大変だったので。米作りを始めたのは、母の病気がきっかけです。食や身体のことに興味を持ちました」

 

自然のリズムや自身の気持ちに背かない暮らしを営む松永さん。商業的な映像作品を手がけていたなか、東日本大震災が転機となり、ドキュメンタリー作品「simplife」を制作します。あやさんの目に、その作品と松永さんは理想として写りました。

 

「松永さんの「simplife」を観て、背中を押されたんです。自由に生きていいんだと。作品のなかには、アメリカ西海岸のタイニーハウスに暮らす人々が登場するのですが、その人たちそれぞれの価値観や考え方には惹かれることが多く、この作品に込めた、松永さんたち制作者のメッセージにも共感をもちました」

 

あやさんにとって、暮らしの基盤を考える上で大切にしたいことが、パーマカルチャーにあったり、松永さんの
「simplife」であったり、点で散らばっていたものが繋がりつつあるのです。

 

「あくまで自分が持つ本当の気持ちを大切にしたいと思います。何々だから、こうあるべき、ではない、ゆるやかさを持って目指す方向に進んでいきたい。山下さんや松永さんからは、ブレないけれど突き詰めすぎない優しさのようなものを感じています。新参者の私たち家族を、いつも気にかけていただいていることには感謝しかないですね」

 

同士のような繋がりには、あたたかく、でもベタベタしない軽やかな付き合い方に秘訣があるようです。

 

映像作家の松永勉さん
ヤマシタは、地域の仲間たちのちょっとした集いの場にもなっている

 

 

「ブーランジェリー ヤマシタ」
http://www.boulangerieyamashita.com/

 

松永勉さんの手がけたドキュメンタリー情報
http://simp.life/

 

撮影:石黒美穂子

日用美の家作り

文/小澤典代

手仕事まわりの取材・執筆とスタイリングを中心に仕事をする。ものと人の関係を通し、普通の当たり前の日々に喜びを見いだせるような企画を提案。著書に「韓国の美しいもの」「日本のかご」(共に新潮社)、「金継ぎのすすめ」(誠文堂新光社)「手仕事と工芸をめぐる 大人の沖縄」(技術評論社)などがある。
関連記事

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitterで「本がすき」を