【第3回】「トゥジと頭上運搬」著:三砂ちづる
三砂ちづる『少女・女・母・婆 〜伝えてきたこと、つないできたこと、切れてしまったこと〜』

トゥジ(嫁)は恋しく強いもの

 

那覇に、同世代の親しい友人がいる。今年、2018年に還暦を迎える私の同世代であるから、だいたい、そういう年齢であり、アンマー(おかあさん)からオバアへの進化途上にある方なのである。バリバリお仕事もしながら、家事もウガン(拝み)もしっかりやっていて、沖縄のアンマーらしい方。私の大切な友人で、沖縄インフォーマント(言語・民俗調査における資料・情報提供者)でもある。

 

那覇の、ほぼ、ど真ん中に住んでいて、それも生まれたときからそうで、嫁に行ってからもそうで、お買い物先は平和通りとか牧志(まきし)の公設市場とか農連市場とかの、生粋(きっすい)のナーファンチュー(那覇の人)で、彼女の土曜日のお買い物に付き合うのは、それはそれは、楽しい。夫と子どもたちと親戚の皆さまと、那覇にディープに根ざし、国際的に生きている。

 

沖縄の言葉で「嫁」のことを「トゥジ」という。那覇に住む彼女の夫たちは、公式名称「トゥジ・カナサーの会」(妻が恋しい男たちの会)、裏の通称「トゥジ・ウトゥルーの会」(妻が恐ろしい男たちの会)を結成していて、夜な夜な出歩くのであるらしい。家から半径1キロ、つまりは直径2キロ以内の那覇の夜の街に「行ってこようね~」と、晩御飯終わって、夜半から出かけて、お友達と遊んでいる。

 

もちろんお友達は、小学校とか中学校とかからのお友達なのであり、お友達と集まる先のスナックのママさんもまた、同級生だったりするわけで、どこに行こうがみんな家族ごと知っている。よって、「トゥジ」たちは、ダンナの行動半径をくまなく把握しており、自らの手のひらの上で、夫たちが暗くなってから明るく遊ぶことを寛いこころで見守り、自分たちもまた、同級生との模合(モアイ:複数のメンバーで毎月決まった金額を出し合い、それを順番に毎月一人の人が受け取っていく金銭相互扶助システム。現在ではほぼ飲み会の口実)とかに出かけるのである。

 

 

亜熱帯沖縄を支える女たち

 

家の近所で遊んでいる「トゥジ・ウトゥルーの会」の男たちの自慢は、恐ろしいとか言いながらも、「ワッター、トゥジ、チューバーどー」(うちの嫁さんって、まったくもって、パワフルなんだってば!)ということであるらしい。私の友人は、職場でもそれなりの地位についていて、地元の新聞にも登場したりして、若々しくてきれいでパワフルそのものなので、文字どおり、デージ・チューバー(とっても強い)なのである。

 

「まったく嫁のことを、パッチィーみたいに言わないでほしいわねえ」と彼女は言う。パッチィー? ん? パッチィー? パッチィーってなんでしょう。パッチィーとは、沖縄でメンコのことであるらしい。関西地方では「べったん」というのだが、標準語ではメンコ、という。
デジモンカードゲームとか遊戯王カードゲームとかが流行るに先立つこと半世紀くらい前の男の子たちや元気な女の子たちは、日本中で、メンコで遊んでいた。エイトマンとかワンダースリーとかスーパージェッターとかの絵がついていた。

 

彼女曰く、ガソリンスタンドのニーニー(お兄さん)の目を盗んでは、ポタポタたれる油をパッチィーにシリシリ(すりすり)して、せっせと染み込ませる。油でシリシリしたパッチィーをさらに砂場に持っていって、砂と混ぜる。そうすると、パッチィーがミルフィーユ状態となって重みを増し、唯一無二の負けないパッチィー、となるのであるらしい。

 

お父さんたちは、昔は強いパッチィーが自慢、今となっては強いトゥジが自慢なのだ。トゥジもいろいろなものをしみ込まされたり、刷り込まれたりして、まあ、強くなるのね、同じだわね、と友人は言う。

 

熱帯の国のあちこちで仕事をしてきたが、まあ、だいたい、どこの熱帯の国でも、女は働き者で強い。昼も夜も働き、夫やら家族やら子どもやら老人やらを女が支えている。男はなんだかわからないけど昼間からみんなで集まって、賭け事したりとかぼんやりお茶を飲んでたりして、どう見ても女より働いていなかった。沖縄の男性方はもちろんしっかり仕事なさっている(と思う)けれど、こういう「強い嫁自慢」などを聞くと、やっぱり亜熱帯沖縄を支えているのは、強い女たちだよなあ、と思ってしまうのである。

 

頭上運搬という身体技法

 

頭上運搬、という、ものの運び方に、長く魅せられてきた。自動車などで簡単に物が運べなかった頃、あるいは、自動車などの移送手段が簡単に手に入らないところでは、両手で物を運ぶのは限りがあるから、人はものを頭に乗せて運んでいた、いや、運んでいる。アフリカ、中南米、東南アジア一帯でまだまだ広く行われていることは、そういうところを旅行したことのある方には馴染み深い風景ではないだろうか。

 

一昨年、コンゴ民主共和国( Democratic Republic of Congo: DRC。キンシャサを首都とする元ザイールと呼ばれていた国であり、ブラザビルを首都とするコンゴ共和国と間違いやすいので、DRCと呼ばれることが多い)を訪ねた折にも、軽々と、しかも絶妙なバランスで、頭にものを乗せてどんどん歩いていく皆さまに感心してしまった。

 

首都キンシャサでは、落としたら割れてしまうたまごのパックを何段にも積み重ねて頭に乗せて運んでいたり、何十本ものペットボトルがビニールで包まれたものを乗せていたり、それを、キンシャサの片道5車線くらいあるものすごい交通量の車の合間で売り歩いていたりなさっているのである。

 

 

地方に調査に入れば、調査用の何十キロもある重いコンテナを、ひょい、と頭に乗せて運んでしまったりするのだ。絶対落としたりしない。一体どうすればこういうことができるのか、思わず見入ってしまう。

 

熱帯アフリカの人たちは、前傾した骨盤のために体型としても頭上運搬が行いやすく、現在でも盛んである、といわれている(川田順造『運ぶヒトの人類学』岩波新書、2014)が、アジアでも日本でもあちこちで行われていたし、今も行われているのだから、おそらく、体型のみによるものではあるまい。

 

私が沖縄に住んでいた1980年代半ばには、まだ、野菜などをたくさん入れた金だらいを頭上に乗せた女性が、首里あたりにも売りにきていたし、糸満地方では、漁港で取れた魚をバーキ(カゴ)に入れて頭に乗せ、那覇までの7キロを飛ぶように歩いていたということを、今、ご存命の方がお話してくださったりする。沖縄での頭上運搬によるものの運び方は、ついこの間まで残っていたのである。

 

「できると思ったから」「みんなやっていたから、やった」

 

くだんの「強い嫁」である友人は、祖母が頭の上にものを乗せて運んでいたことをよく覚えていて、祖母がやっていたから、小さい頃は自分もやってみたおぼえがあるという。「やり方、教えてもらったの?」「ううん、別に。自分もできると思ったからやっていただけ」……。

 

できると思っただけ。このあたりに、“ある身体技法ができるようになる”コツがあるように思う。彼女はそのあと、必要がなくなったから、頭上運搬をしていないし、今はできない。でも小さい頃はできたのである。

 

周りの人がみんなやっていたから、自分もやることが当たり前だと思い、やってみて、できるようになっていた。必要がなくなったから、やらなくなったら、できなくなった。もちろん、その次の世代は、誰かがやっているのを見ることがないから、できなくなる。

 

糸満地方で80代の女性の聞き取りをした時も、4歳くらいの時に、家族総出で港に薪(まき)を取りに行かねばならず、たくさん運ばなければならないから、自分も頭に乗せて運び始めたのだ、とおっしゃっていた。こちらも「教えてもらったことはない、みんなやっていたから、やった」とのことだった。

 

世の中の発達とともに失われていった身体技法は、研究者である私の興味をひいてやまない。
なぜできるようになるのか、なぜできなくなるのか、それは体型や身体使いより、何より、まず「できる」という意識ありき、ではないか、と考えており、この夏もその課題を追いたいと思う。

 

参考:https://www.ryukyumura.co.jp/official/blog/entry/1252/

「少女・女・母・婆」

三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学国際関係学科教授(多文化国際協力コース担当)。
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