akane
2019/04/02
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2019/04/02
インテルは、1969年から日本の電卓メーカーであるビジコン社の委託を受けて、電卓用汎用LSI(大規模集積回路)の共同開発を開始します。
ここで、一つの疑問が生じます。
それは、なぜ、半導体メモリを主力事業としていたインテルが、電卓用汎用LSIの共同開発を受託したのかという疑問です。
その背景には、日本企業によるLSI電卓の成功がありました。
シャープは1964年、トランジスタ電卓を販売し、1969年にはLSIを使用したLSI電卓マイクロコンペットを、約10万円という価格で発表しています。この電卓に採用されたLSIは、米国のノースアメリカン・ロックウェル社とシャープが共同開発したものでした。
そしてこのLSI電卓の成功が、半導体メーカーの用途探索のアンテナを電卓業界に向けさせることになったのです。
米国の半導体メーカーは、半導体技術の有望な用途先を、メモリ分野以外にも探索していました。
誕生したばかりの半導体技術が一体何に使えるのか、これは新技術を生み出した企業が必ず直面する重要な経営課題ですが、米国の半導体メーカーもまた、その課題に直面していたのです。
つまり、インテルが電卓用途向けLSIの共同開発を受託した背景には、メモリ分野以外の新たな用途先を開拓したいという半導体メーカーの切実な事情が存在していたであろうと考えられるのです。
しかし、ビジコンとインテルの共同開発は、「最初の2ヶ月はお互いが一人相撲をしているようであった」(嶋正利『マイクロコンピュータの誕生』1987年、岩波書店)という。
米国には、電卓の会社というものはほとんどありませんでした。それに加えて、電卓の新機能は日本の会社から生まれたために、新機能の話をしてもインテルの技術者は当初なかなか理解できなかったのです。
特に、電卓用汎用LSIの開発で重要なのは、電卓の論理(ハードウェア回路網)をどうやって実現するのかということでした。
それについてビジコン社は、当初、プログラム論理方式の提案をしました。
これは、電卓の機能を細かい動作に分解して汎用化させ、それをまずマクロ命令として定義し、次にそのマクロ命令を用いてプログラムを組み、電卓の機能を実現させるという仕組みでした。
その後、1969年8月、インテルのホフが、マクロ命令よりもさらに細かなマイクロ命令を用いるというアイデアを出したのですが、これは一層の汎用性という視点から、高く評価できるものであったようです。
ホフのアイデアの核心は、ビジコン社が提案したマクロ命令を、さらにコンピュータの機械語に匹敵するマイクロなレベルの命令にまで下げて、プログラムできるデバイスを作るというものでした。当時の半導体産業においては、ソフトウェアでプログラムできるデバイスというアイデアは画期的なものだったのですが、それを実現するために、ROMとRAMと入出力部をうまく切り分けて、それらをバス(電気的通信路)で結ぶというアーキテクチャを構想したのです。
ここでMPUの特性を改めて整理すると、MPUとはソフトウェアで制御される半導体デバイスで、ソフトウェアを変更することで様々な機能が実現できる小型汎用コンピュータのようなものということになるでしょう。
つまり、MPUのアイデアは、このような経緯で誕生したのです。(つづく)
※以上、『日本のものづくりを支えた ファナックとインテルの戦略』(柴田友厚著、光文社新書)から抜粋し、一部改変してお届けしました。
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