akane
2019/07/23
akane
2019/07/23
昭和五十八年の秋、珍しくボストンにいる征爾から電話がかかってきた。
何事だろうと思ったら、
「ポン(※編集部注:筆者の家族間での呼び名)!悪いけどな、こんどの日曜日、成城の初等科の運動会なんだよ。オレのビデオカメラでウチの子供たちの走るとことか、学年全員の旗の体操なんか、みんな撮っておいてくれないか」
と言う。
征爾の子ぼんのう、というか親馬鹿ぶりには定評があって、はじめての人はびっくりするが、親しい友達はもうあきれかえっちゃって慣れてしまった。
僕だって内心は、自分も人並みに親馬鹿だな、と思うこともあるが、征爾の親馬鹿にはとてもかなわない。僕は、むっつり助平ならぬ、むっつり親馬鹿だが、征爾はまったくオープンな親馬鹿である。
何しろ、長女がサンフランシスコで生まれたときは、ちょうど日本の暮の「第九」のシーズンとぶつかってしまったのだが、征爾は出産予定日がわかると、早々と夏すぎに岩城宏之さんに「第九」の指揮を代わってもらって、サンフランシスコでの長女出産に立ち会ったのだ。
しかも、医師と看護師しか入れない分べん室に、征爾は特別にたのみこんで全身消毒して白衣を着て入ったという。
あちらの病院の人たちもさぞあきれたと思うが、傑作なのは、三年後に同じ病院で長男が生まれるときは、征爾が病院に行くと、
「また、入りたいんでしょ」
と、征爾用の白衣がもう用意してあったそうだ。
征爾はなんにでも行動的だが、子供のことでは、とくにマメである。
大阪でコンサートをやったとき、前日のゲネプロ(会場練習)を終えてから東京へ飛んで帰り、翌日子供の文化祭をみて、すぐ大阪に戻って振ったなんていうこともあった。
征爾は日本にいるときは、例の明けがたの勉強を終えてから、ジョギングがてら、下の子と一緒に小学校まで行くのを日課にしている。
それだけではなく、週一回下の子の教室(二年生)に入って、担任の先生の許可を得て、子供たちにやさしい音楽の話を十分間ほどしているのだ。
この征爾の「おしかけスピーチ」も、回を重ねていくうちにすっかり子供たちにもおなじみになって、シリーズ化(?)したらしいが、三学期の最後のスピーチの日、征爾が、
(今日でこのクラスともお別れか)
と思って涙ぐんでいたら、ある生徒が、
「もう、音楽を教えてくれないの?」
と聞いてきた。征爾は、
「いや、君たちが三年生になって、クラスが変わってバラバラになっても、それぞれの教室に行ってお話をするよ」
と答えると、子供たちも大よろこび。征爾もいたく感激したらしい。
「小学校から家まで、オレは泣きながら帰ってきたよ」
と、征爾はその晩、麻布のお寿司屋さんで、うれしそうに話していた。
征爾の子ぼんのうぶりは、たしかにあれはふつうではないが、本人にしてみれば、あれがふつうなのだ。
結局、征爾の親馬鹿は、征爾の優しさの表われなんだと僕は思う。
この記事は『やわらかな兄 征爾』(小澤幹雄・著)より、一部を抜粋・要約して作成しています。
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