仕事を「好き」×「得意」で選ぶのは間違い!? 山口周が語る、幸福になるための仕事選び
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gimahiromi

2019/07/18

どれだけ汚くてかっこ悪くても、どんな人生も「これまで」はかけがえなく、「これから」は愛してあげたいものだ――。
大手広告代理店、インターネットベンチャー、米国企業のコンサルタント、組織開発・リーダーシップ育成と様々な職業を経験してきた著者がキャリア研究や自然科学・人文科学の観点から「仕事選び」を考える光文社新書『仕事選びのアートとサイエンス』の刊行を記念して、本書から一部をピックアップ!
第2回の今回は、仕事選びにおいてよく言われる「好きなこと」「得意なこと」を重要視する風潮の落とし穴を探ります。

 

 

「好き」×「得意」なことを選べと言われても……

 

これまでの長いこと、キャリア論においては「好き」と「得意」の重なる領域から仕事を選びなさい、とアドバイスされてきました。

 

例えば組織開発論の大家エドガー・シャインは、キャリア選択においては、

 

(1)自分は何が得意か?
(2)自分は何がやりたいか?
(3)社会的意義があると感じるのはどのような活動か?

 

の三点をよく熟慮すべきであると指摘しています。

 

また、ほぼ同様なことをマイケル・アーサーというキャリア論の専門家も指摘していて、こちらは、

 

(1)自分ならではの強みはどこにあるか?
(2)自分が何かをしたいと思うとき、なぜそれがしたいのか?
(3)自分はこれまで誰とつながり、どのような関係を築いてきたか?

 

の三つを挙げています。

 

言葉遣いは違うものの、二人とも「好きなこと」と「得意なこと」を仕事選びの重要なポイントに挙げている点では違いがありません。

 

一見して非常に説得力もありますし、これを踏まえて答えを出せば、自分にフィットした仕事を見つけられそうな気もします。

 

私自身、自分の仕事選びにおいて前記のような観点を意識したことは確かなのですが、その上であえて言えば、このような問いは「念頭に置く」程度に留めるべきで、クソマジメに考えて答えを出しても、あまり意味はないのではないかと思っています。

 

得意なものは分からない

 

その理由は単純で、キャリア選択というのはほとんどの場合、未経験の仕事を検討対象に含めて意思決定しなければならないからです。やったことがないのに何が得意かを判断するのは、難しいどころの話ではなくて不可能です。

 

この点を経営戦略の枠組みを使って考えてみましょう。

 

経営戦略において、企業が事業ドメインを選定する際には、「自社の中核的な能力」と「事業のKSF」に軸足を置きます。これは、自社の能力を活かせる事業領域で戦おうという考え方であり、コンサルティングで事業戦略を策定する際にも、この二点を軸足に設定するアプローチをとります。

 

このアプローチをキャリア選択の考え方に援用してみると、「何が得意か」という問いを軸足にして職業を選ぶには、「自分の得意領域についての理解」に加えて、「その職業が求めるスキルやコンピテンシーについての理解」が必要であることが分かります。

 

この二つの条件が満たされて初めて、自分の得意領域を活かせる職業を選べるわけですが、本当にこんなことが可能なのでしょうか?

 

まず、一点目の「自分の得意領域についての理解」について考えてみましょう。

 

確かに、自分は何が得意なのか、という点を深く内省してみれば、いくつかそれらしい答えは見つけられるかも知れません。実際にそのようなアドバイスを就職学生に与えていらっしゃる方も多いと認識しています。

 

しかし、その「得意」のレベルが本当に社会に出て優位性を発揮できるだけのポテンシャルを持つものなのかどうかは、誰にも分からないと考えるほうが自然でしょう。

 

ではなぜ、多くの人は、これまでの人生経験で得られた数少ない事象から自分の得意領域についてのスキーマを形成する、という危険なアプローチを採用するのでしょうか?

 

私は、自分自身の経験から、家族の影響が大きいのではないかと考えています。

 

私は新卒時に電通を就職先として選びましたが、その選択に大きな影響を与えていたのが、両親、特に母親の自分に対する評価でした。

 

「周ちゃんは感性が豊かでクリエイティブだから、広告とかテレビ局とかがいいんじゃないの」と子どものころから言われ続けた結果、そういう自己評価を形成して電通を志望したわけです。

 

結果的にこの選択は正しかったので、いまとなっては感謝しているのですが、翻って、当時の母の評価にどの程度の客観性があったのかを考えてみると、いささか心許ないと言わざるを得ません。というのもサンプル数が少なすぎるからです。

 

両親が私のクリエイティビティを評価するに当たって比較対象となったのは、兄弟や従兄弟、友人・知人の子息令嬢で、絵を描いたり楽器を習得したりという側面において、確かにこれらの人より私は器用だったようです。

 

特にひどかったのが弟で、お手本を目の前にして描いているにもかかわらず、何を描いているのか判然としないというレベルでした。私の両親は、絵が好きな私と何やら奇妙なモノを描いている弟を比較して「周ちゃんは絵が得意」という評価を下したわけで、サンプル数の問題を除けば、それはそれで正しかったと言えます。

 

しかし、この相対的優位性のモノサシは、これを職業にしようと思った瞬間から、世の中にたくさんいる「自分はクリエイティビティがある」と思っている連中との比較で用いられることになります。

 

そうなったときに本当にやっていけるのかどうか? ということは、実はしばらく経験してみなければよく分からない。勝てるかも知れないし勝てないかも知れない。

 

全ては、やってみなければ分からない、ということです。

 

人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない。
アン・モロー・リンドバーグ

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仕事選びのアートとサイエンス

仕事選びのアートとサイエンス不確実な時代の天職探し  改訂『天職は寝て待て』

山口周

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