akane
2018/05/07
akane
2018/05/07
障害者や重い病気の人を政府が救済すべきではないと考える日本人は少ない。
だが、貧しい人を政府が救済すべきではないと考える日本人の比率は、他の先進国と比べると圧倒的に高い。
それはなぜか。
そこには、怠惰こそが貧困の主要因だと見なしていて、怠け者は救済されるべきではないという考えがあるからだ。
はたして、怠け者は救済には値しないのだろうか?
新刊『AI時代の新・ベーシックインカム論』を上梓した井上智洋氏は、「たとえ怠惰であったとしても救済すべき」と語る。本書を参考に、その考えに迫ってみたい。
ここでは、ホームレスになる運の悪さについて考えてみよう。
中学生の時にクラス全員から無視される、授業中、背中にコンパスを刺されるといった壮絶なイジメを受けて人間不信になり、高校は合格したものの、ほとんど行くことができなかったために退学し、それ以降、ずっと実家で引きこもり状態に陥っているという35歳の男がいたとしよう。
彼はとにかく他人と会うのが怖くて仕方がない。他人と会っただけで、いじめを受けていた時の苦痛に満ちた光景がフラッシュバックし、吐き気を催してしまう。今は親が食わせてくれているが、親が亡くなった後は収入の当ては全くなく、ホームレスになるしかない。
そんな彼に対し、がんばれ、努力しろ、働け、というのは酷なことではないだろうか。
彼がこんな境遇に陥ったのは、運が悪いからではないか。
障害者が公的扶助を受けられる一方、彼がなんらの扶助も受けられないとすれば、それはおかしなことだと考えられないだろうか。
また、そもそも労働意欲がないこと、怠惰であることはそんなに罪深いことだろうか。
しかし、よく考えてみてほしい。近世・近代という時代が、あくせく働いてより多くの賃金を得ることが美徳とされる特殊な時代だということを。人類は有史以来の長い期間を通して、労働をそれほど尊んでいなかった。事実、古代ギリシャでは、労働は主に奴隷の役割で、市民には忌み嫌われていた。
AIが高度に発達し、BIが普及した未来社会「脱労働社会」では、勤勉であることは今ほどの価値を持たず、美徳であることもなくなるだろう。
そして、「脱労働社会」では、今日、「社畜」などと呼ばれ猛烈に会社に奉仕している人たちにとっては、大変残念な社会となるだろう。労働に生きがいを感じているそうした人々は、早晩価値観の転換を迫られるだろう。
私たちは、今こそ、近代以前の勤労道徳が支配的ではなかった時代の価値観を取り戻すことで、逆に、近代という時代を乗り越えて先の時代へと、歩みを進めることができるのではないだろうか。
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