2018/12/10
宮坂裕二 放送局プロデューサー
『江戸の暮らしが見えてくる!吉原の落語』青春新書インテリジェンス
渡辺憲司/著
職業柄、落語家との接点が多く、招かれた寄席で廓噺し(吉原遊郭に関連した落語)を拝見することが多い。
古今亭志ん生の落語の枕ではないが、この際、勉強のため吉原を訪ねることにした。といっても移動手段は専らジョギングで、インスタ映えする落語スポットを巡るもの。
コースは、上野・下谷神社から、吉原大門、見返り柳、仲町通り、お歯黒どぶと訪ね、三ノ輪・浄閑寺を終点とする計5キロ程。今回ご紹介の書籍『吉原の落語』の内容をインプットし、いざスタート。
まずは、寄席発祥の上野・下谷神社を参拝し出発する。
浅草通りから浅草寺を横切り、日本堤通りに出て、見返り柳のある吉原大門へ。
この間3キロをひたすら走る。
吉原遊郭は堀(お歯黒どぶ)で隔離され、吉原大門は客にとっての唯一の出入り口。
大門にある見返り柳は、客がこれを返り見て名残り惜しんだことに由来する。
落語『明烏』は、この大門での出入りのチェックシステムをネタに展開される。
見返り柳をくの字にたどる五十間道を進むと、300メートル程のメインストリート・仲町通りがある。仲町通りは花魁道中があった通りで、通りの両側は引手茶屋や見世(遊女屋)が軒を連ねていた。(今は個室サウナが軒を連ねている)
落語『紺屋高尾』は、花魁道中の花魁・高尾太夫に一目ぼれした染物屋職人の噺しで、身分を偽り、3年間に貯め込んだ十両を持って高尾太夫に会いに行くもの。
この書籍には、そうした落語の粗筋と吉原のシステム等がわかりやすく紹介されている。
さて仲町通りを通り抜け、吉原を隔離していた水堀(お歯黒どぶ)があった周囲1.2キロを、江戸当時の風景を思い浮かべながらジョギングする。
当時、遊女がこの堀を越えて逃げ出すことはご法度だったが、落語『首ったけ』では、堀に身を投げ大火事から逃れようとする遊女のくだりがでてくる。
また、堀に面した通り(河岸)は、一般庶民が遊ぶ小さな見世が軒を連ね、その小見世でのやり取りが落語『お直し』に出てくる。
江戸人情の機微に触れられる落語2席を思い起す。
周回後、見返り柳に戻り、日本堤通りを三ノ輪方向に700メートル、三ノ輪・浄閑寺に向かう。
落語『お見立て』では、遊女が嫌な客と会いたくないばかりに、若い衆に亡くなったと嘘をつかせることでおこるドタバタ。最後には他人の墓を遊女の墓と偽る噺し。
そんな遊女たちの墓があるのがこの浄閑寺である。
浄閑寺は、遊女の投げ捨て寺とも呼ばれ、病気などで亡くなった遊女の多くは、こうしたお寺に、人知れず運ばれ葬られた。
吉原は、苦界といわれ、年季明けの27歳まで、健康でいられれば幸運といわれた。
落語『お見立て』は、そんな遊女がおかれた社会背景をベースに描かれている。
さて、この『吉原の落語』は、2011年東日本大震災後に出版されたもので、著者・渡辺憲司氏は江戸時代の小説・遊里史が専門の文学者。
大学教授退官後に就任した高校の校長時代に、東日本大震災があり、当時の卒業生に向けたメッセージ「時に海を見よ」が話題となりメディアで紹介された。
当時のメッセージをここに抜粋したい。
「悲惨な現実を前にしても伝おう。……時に、孤独を直視せよ。……いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。……
真っ正直に生きよ。くそまじめになれ。一途になれ。貧しさを恐れるな。……忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな…愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。」
5キロ強の廓噺しゆかりの地を巡るジョギング。渡辺氏のメッセージを思い起こしながら、浄閑寺で荒れた呼吸を整えることにした。
著者の他の作品に、『江戸遊里の記憶―苦界残影考』(ゆまに書房)、『いのりの海へ 出会と発見 大人の旅』(婦人之友社)等がある。
『江戸の暮らしが見えてくる!吉原の落語』青春新書インテリジェンス
渡辺憲司/著