2018/12/13
大山 ヴィレッジヴァンガード新店立ち上げ隊長
『ザ・マンガホニャララ 21世紀の漫画論』
ブルボン小林/著
出版業界は20年以上衰退を続けていますが、出版点数だけは最近まで右肩上がりで増え続けていました。
ビジネスっぽく言うと市場のパイは小さくなっていってるのにプレーヤーはどんどん増えていく、という歪な構造になっています。
通常、スポーツでも娯楽でも裾野が広がって人数が増えていくほどジャンルとしては栄えるものですが、完全に真逆!
その中でもマンガとなるとスマホ特化型のアプリや電子書籍、同人誌まで合わせるともう、正直多過ぎて選べんわ!って状態です。
あとそんなにいっぱい買えねーよ!ってのが本音でもあります。
だから海賊サイトが隆盛するんでしょうし、好きなジャンルを追いかけるだけで時間的にも経済的にもいっぱいいっぱいな人が多そうな気もします。
ドカンと売れるのはドラマ化や映画化で普段マンガを買わない人を巻き込んだものだけ。
そんな市場に作品があふれすぎている時代のマンガ評となると、「今来てるマンガ、次に来るマンガ」に偏りがちです。
「このマンガがすごい!」をはじめ多数存在する漫画賞の主流もそういった「新しいマンガ」です。
ボンコバ先生(リスペクトを込めてこの呼び方で)のマンガ評も「今来てるマンガ、次に来るマンガ」について書かれています。
ただし、すべて「個人的に」って付きます。
その中には「昔流行ったマンガ」もあれば「一度も流行ってないマンガ」もあり、そもそも「マンガ専門誌で連載してないマンガ」とか「CDの特典で付いてくるマンガ」まであります。
「流行った後もずっと面白く、長期連載の最後でピークを迎えたマンガ」とか、「流行った後ちょっと波はあったけど、最近また面白くなってきたマンガ」とかもあります。
ジャンルも作風もバラバラのそれらの作品に共通するのは「マンガという表現」であることだけ。
矛盾した表現かもしれませんが歪さを感じるほどにフラットな目線です。
そんなボンコバ先生のマンガ評には、本人が「熱弁は、熱ではなく弁を読んでくれ」と語るように、「なぜおもしろいのか」が「言語化されるおもしろさ」が詰まっています。
カラスヤサトシの「オレなんかが親になって大丈夫か?」を読んだ後に6年前に刊行された同作者の「おのぼり物語」を読んだら「より泣ける」ことを発見し、「裏技みたい」と評する比喩のさりげなさとわかりやすさ!
「裏技」という(本来は)ゲームの言葉で表現されたことにより、新しいプレイ方法を試すような気分で「この読み方してみたい!」と素直に思ってしまいました。
作品単体ではなく「読み方だって提案できること」はすべての本屋にとっての希望でもあるはず。
「傑作」という表現を10年に渡る書評で3度しか使っていない(本人談)ことには「なぜおもしろいのか」を語ることへの矜持を感じます。
好きなマンガやキャラクターへの愛を「熱」を持って語ることはとても楽しいです。
でも、得てして「熱弁」の「熱」だけが感じられる話は興味のない人には退屈なものです。
自分も酔っぱらってる時にやりがちですね…
ボンコバ先生のマンガ評を読むと、その弁の「説得力」に心が動いて作品を読みたくなります。
そして自分もまた人を読む気にさせるような「熱弁をふるってみたくなる」のです。
週刊文春の連載が年内で終了するのは残念などという言葉では済ませたくないです。
「マンガ読みに向けたマンガ評」だけでなく、「マンガに興味ない人に向けたマンガ評」や、「マンガ読みがマンガと見なしていないマンガ評」が存在するからマンガの世界が拡がっていくと思うので。
あと、桜玉吉先生とブルボン小林先生の二人が週刊文春で連載してる、っていう
俺得すぎる状態が終わるの嫌だ~!
ー今月のつぶやきー
ネジネジした形のFusilliっていうパスタの正しい読み方がわかりません。
教えてイタリアの人!フジッリ?なんか言いにくい。でもフリッジは絶対違うよね?
VOW的なものについ反応してしまう40代です…「VOICE OF WONDERLAND」って書くとめちゃくちゃカッコいいんですが。
『ザ・マンガホニャララ 21世紀の漫画論 』
ブルボン小林/著