あなたの身体は誰のものか。ある女性の物語『不死細胞ヒーラ』

長江貴士 元書店員

『不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生』講談社
レベッカ・スクルート/著 中里京子/訳

 

【ヒーラ細胞は、過去百年間に医学界に生じたもっとも重要な出来事のひとつだ。】

 

これは、著者の学生時代の生物学の教師の言葉である。

 

【本書が2009年に印刷に回った時点では、ヒーラ細胞に関する研究論文の数は六万編を超え、毎月三百編の割合で、今でも増えつづけている】

 

そうまで言われる「ヒーラ細胞」とは一体なんなのか?それは、「自力で不死化するヒト細胞」である。これだけでは、その凄さはよく分からないだろう。しかしその辺りの話は、後でする。まずは、何故この「ヒーラ細胞」が、一冊の本になるほどのテーマであるかについて触れよう。それは、医学的に重要な価値があるから、というだけでは決してない。そこには、報われずに亡くなったとある黒人女性と、その遺族たちの無念さと奮闘の歴史が刻まれているのだ。

 

後で詳しく触れるが、「ヒーラ細胞」は、ヘンリエッタ・ラックスという女性から“無断”で採取された細胞だ。ヘンリエッタも、そしてその遺族たちも、彼女の細胞が「ヒーラ細胞」という名前で医学・生物学の世界で重要視されていることなど、まったく知らなかった。「ヒーラ細胞」のある特徴がなければ、遺族たちは永遠にその事実を知らないままだったかもしれない。病院代も払えないほど貧しい生活を強いられていた黒人女性やその家族の生活と、“無断”で採取した細胞を使って大儲けしている会社や恩恵を受けている科学界の現実の対比が、非常に印象的な一冊だ。

 

それでは、「自力で不死化するヒト細胞」の話をしよう。

 

生物学の世界では、実験のためにヒトの細胞が必要だ。人間の細胞に対してなんらかの実験をしたい場合、生きている人間に対して行うのはなかなか難しい。薬の治験であれば、動物実験などで安全性が確認された最終段階のものが生きた人間に投与される。いきなり生きている人間に対しては行わない。それと同じように、最終的には生きている人間に対して行うことであっても、最初からそれは出来ない。だから、ヒトの細胞が必要だ。

 

しかし、実験で使えるヒトの細胞を作り出すことは難しかった。「ヒーラ細胞」が登場する数十年前から科学者たちはずっと、ヒト細胞を培養下で生き続けさせようと奮闘してきたのだが、一度として成功した試しがなかったのだ。少しの間生きていられるヒト細胞があっても、実験には向かない。そうではなく、培養下で生きられる(不死化している)ヒト細胞が必要なのだ。

 

現在の技術であれば、ヒトの不死化細胞を人為的に作り出すことは可能だ。しかし一昔前は不可能だった。だからこそ、「自力で」不死化するヒト細胞が待望されたのだが、誰もそれを作り出すことが出来なかった。そして、それが実現されたのが「ヒーラ細胞」だったのだ。

 

「ヒーラ細胞」がどれほど凄いのか、本書には様々な記述がある。

 

【ヒト細胞が無重力空間でどうなるかを調べるために初期の宇宙ロケットに積み込まれたこと、あるいはポリオのワクチン、化学療法、クローン作製、遺伝子マッピング、体外受精をはじめとする医学の重要な進歩にどれほど貢献したか】

 

【彼女の細胞は、癌を引き起こす遺伝子と癌を抑制する遺伝子の研究に使われた。ヘルペス、白血病、インフルエンザ、血友病、パーキンソン病の治療薬の開発にも貢献した。さらには、乳糖の消化から、性感染症、虫垂炎、ヒトの寿命、蚊の交尾、下水道内の作業が細胞におよぼす悪影響といった広範な研究にも使われた。この細胞の染色体とたんぱく質は微に入り細を穿って研究され、今や科学者たちは、そのどんな癖にも通じている。モルモットやマウスと同じように、ヘンリエッタの細胞も、研究室の定番実験材料になったのだった】

 

「ヒーラ細胞」がもし存在しなければ、医学の世界はこれほど発展しなかったかもしれない。そう思わせるのに十分過ぎるほどの貢献をしている。現在でも、「ヒーラ細胞」のように自力で不死化する細胞はほぼ存在しないようで、また「ヒーラ細胞」が何故自力で不死化するのかも未だに解明されていないという。

 

それでは、ヘンリエッタ・ラックスの物語に戻ろう。ヘンリエッタは貧しく、病院代も出せない程だったが、当時近くに、人種に関わらずどんな人も無料で診療する病院があった。そこでは元々、患者を無料で診断する代わりに細胞の摂取や治験などが行われており、癌に冒されたヘンリエッタがそこで治療を受け、その過程で細胞を採取されたのも、ある意味では通常の手続きのことだった。そうやって採取された細胞は、「不死化されたヒト細胞」を生み出そうとかねてより実験を繰り返していたガイという研究者の元へと送られ、そこで「ヒーラ細胞」が誕生することになったのだ。

 

「ヒーラ細胞」はやがて多くの研究者の元へと渡り、実験材料の定番となっていった。しかし次第に「ヒーラ細胞」の問題点が明らかになっていく。科学界はしばらくその問題に気づかなかった。ある科学者の指摘により、そうやくその事実を認めるに至ったのだ。

 

それは、「ヒーラ細胞が他の細胞を汚染している」という事実だ。

 

「ヒーラ細胞」はあまりにも増殖力が強いため、厳重に管理された環境で培養を行わなければ、「ヒーラ細胞」は何らかの形で他の細胞と接触してしまい、飲み込んでしまう。「ヒーラ細胞」の誕生以来、様々な実験用ヒト細胞が生み出されたが、それらがすべて「ヒーラ細胞」に汚染されている可能性が浮上したのだ。

 

そしてこのことが、「ヒーラ細胞」とラックス家を結びつけることになる。何故なら、「ヒーラ細胞」によって汚染されているかどうかを検査するために、「これがヒーラ細胞である」というマーカーを発見する必要があったのだが、そのためにはヘンリエッタ・ラックスの家族の遺伝子情報が必要だったからだ。

 

事ここに至ってようやく科学界は、「ヒーラ細胞」の持ち主だった女性に関心を抱くことになる。それまで「ヒーラ細胞」は、提供者の匿名性を守るために「ヘレン・レイン」という偽名で知られており、科学者たちはヘンリエッタ・ラックスという名前をまったく知らないでいた。しかしマーカーの開発のために、伝手を辿ってラックス家の人々に接触することになったのだ。

 

さて、本書の著者は、これらの過程を後で知った。彼女は、生物学の教師から初めて「ヒーラ細胞」の名前を知り、そこからラックス家へとアプローチしていくことになる。しかし、ヘンリエッタ・ラックスの娘であるデボラは、非常に難しい相手だった。それもそのはず、著者が「ヒーラ細胞」について様々なことを知るまでの間に、ラックス家は科学界やマスコミに散々振り回されていたからだ。著者にとってがある意味ではマイナスからのスタートと言える状況だったが、彼女の熱心さがデボラへと伝わり、やがて親友のような関係へと変わっていく。

 

デボラの怒りは、大きく2点に集約されていた。それは、「母の名前が間違って知られており、母の功績が正しく伝わっていないこと」と「誰も母のことについて私に教えてくれないこと」だ。ラックス家の親族の中には、お金について言及する者もいたが、デボラはそれよりも、母の名誉のために闘った。そして、本書が出版されたことで、デボラの願いの多くは達成されたと言えるだろう。何故なら本書は、出版されるやいなや「ニューヨークタイムズ」や「ピープル」など60以上のメディアから2010年のベスト作品に選出され、また翻訳版が25ヶ国で出版されているのだ。

 

「ヒーラ細胞」のことは、僕も本書を読むまで名前さえ聞いたことがなかった。科学の世界に、これほど際立った功績を持ち、なおかつこれほど人間臭い物語があるなど、まったく知らなかった。科学そのものに関心が持てない人であっても、ヘンリエッタ・ラックスを巡るこの壮大な物語は、楽しく読めるはずだ。

 

最後に。本書を読んで意外だった話を書いておこう。「ヒーラ細胞」はヘンリエッタ・ラックスから“無断”で採取された細胞だが、現在の法律でも、この行為は違法ではないらしい。患者から採取した細胞を研究に使う場合、それを患者本人に伝える必要は、現時点ではないそうなのだ。だから、ヘンリエッタ・ラックスの身に起こったこの出来事は、決して、我々も無関係ではないのである。

 

 

『不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生』講談社
レベッカ・スクルート/著 中里京子/訳

この記事を書いた人

長江貴士

-nagae-takashi-

元書店員

1983年静岡県生まれ。大学中退後、10年近く神奈川の書店でフリーターとして過ごし、2015年さわや書店入社。2016年、文庫本(清水潔『殺人犯はそこにいる』)の表紙をオリジナルのカバーで覆って販売した「文庫X」を企画。2017年、初の著書『書店員X「常識」に殺されない生き方』を出版。2019年、さわや書店を退社。現在、出版取次勤務。 「本がすき。」のサイトで、「非属の才能」の全文無料公開に関わらせていただきました。

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