「人類最初の殺人者」を現代に蘇らせた物語 『カインは言わなかった』

金杉由美 図書室司書

『カインは言わなかった』文藝春秋
芦沢央/著

 

 

本の袖に、すでにその答えは明示されていた。

 

小説の主な舞台は、カリスマ監督・誉田のダンスカンパニーの公演。
演目は「カイン」、弟・アベルを殺して人類最初の殺人者となったカインの物語だ。
主役を演じるはずだった藤谷誠は、初日の3日前に「カインに出られなくなった」というメッセージを恋人のあゆ子に残したまま姿を消す。
代役にたてられたのはルームメイトの尾上和馬。

 

監督の誉田は苛烈な指導で知られ、今までに何人ものダンサーが退団に追いこまれていた。
憔悴していく誠の姿を身近でみていたあゆ子は、胸騒ぎを覚えて彼の行方を必死に追う。
「カイン」の舞台装置には、誠の弟で新進気鋭の画家・豪の作品が起用されていた。
母に溺愛され、豊かな才能を持った豪に、誠は子供のころから複雑な感情を抱いていた。
カインとアベルさながらの関係性を持つ兄と弟。

 

東日本大震災の直後に発表された「オルフェウス」、主役が開幕直前に死んだ「ジゼル」、誉田のこれまでの作品は現実とリンクすることによって大きな話題を呼んでいた。
今回もその融合は起きるのか?
誠の失踪に豪は関わっているのか?
そして舞台の開幕が迫る。

 

ダンスの世界でも美術の世界でも、才能と努力と運のすべてが備わった一握りの人間だけがスポットライトを浴びる。それ以外のその他大勢は、群舞の一員でしかない。

 

明るい舞台に躍り出るための血の出るような努力。たとえ高みに手が届かなくても彼らは踊り続ける。退路のすべてを断ち切ってしまったのだから。

 

彼らの追いつめられた気持ちを理解することは、家族にも恋人にも不可能だ。
出来るのは、ただ寄り添うことだけ。

 

すべてにおいて兄より秀で、画家としても成功をつかみつつある豪。
数々の問題作を世に送りだし、世界的な注目を浴びている誉田。
強靭な翼で羽ばたいているかに見える彼らも、人知れず傷つきもがき続けている。
そしてその痛みさえも、より高く羽ばたくための糧としている。
すべては、芸術の神に選ばれたいがため。

 

誉田が誠に命じたカインとしての表現は、非常に困難なものだった。
優秀な弟をもってしまった愛されない兄の苦悩、それを内に秘めて踊れ、と。
決して表面に出して語るな、と。
だから「カインは言わなかった」のだ。

 

登場人物たちの葛藤はもつれにもつれ、物語は不穏な緊張感に包まれていく。
カインはアベルを殺したのか?
兄は弟を殺したのか?
そして舞台は暗転する。

 

本の袖に、すでにすべての答えが明示されていた。

 

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『カインは言わなかった』文藝春秋
芦沢央/著

この記事を書いた人

金杉由美

-kanasugi-yumi-

図書室司書

都内の私立高校図書室で司書として勤務中。 図書室で購入した本のPOPを書いていたら、先生に「売れている本屋さんみたいですね!」と言われたけど、前職は売れない本屋の文芸書担当だったことは秘密。 本屋を辞めたら新刊なんか読まないで持ってる本だけ読み返して老後を過ごそう、と思っていたのに、気がついたらまた新刊を読むのに追われている。

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