2020/02/07
吉村博光 HONZレビュアー
『あなたに似た人』早川書房
ロアルド・ダール/著 田口 俊樹/翻訳
さして読書家だったわけでもない私の少年時代だったが、記憶に残る本はいくつかあった。なかでも『チョコレート工場の秘密』は、ひときわ強い印象を残している。登場人物だけでなく著者自身が、本の向こうからニヤリと笑いかけているように感じたものだ。
その著者ロアルド・ダールによる世界的に有名な短編集が、本書『あなたに似た人』である。私がこの本を手にしたのは、作家・開高健のもとを初めて訪れた新人編集者がこの本をプレゼントされたと聞いたからだ。本書の写真をみると、著者がニヤリと私に笑いかけてきた。
想像通りの表情である。直感的に、この本は私に合う、と思った。そして、読んでみたらやはり面白かった。著者の笑顔の裏にある企み。どこにでもある人間の浅薄さをエンターテイメントにして、サラリと提示してみせる。その技は、まるで手品のようだ。
大抵の場合、人間のダークな部分をみせられると、読み手は説教臭さを感じるものだ。しかし、ダールはそれを許さない。むしろ我々は、その手品で陶酔すら覚えてしまうのである。その秘密は、ダールの傑出した表現力と社会性にある、と私は考えている。
この2点について、本書の巻頭を飾る『味』という短編を使って、説明してみたい。
まずは、傑出した表現力。「やや内気で、あいまいとも言えるが、明らかに用心深いよ」「ちょっと淫らなところもあるようだが、それでも気さくであることに変わりはない」。この表現が何を言い表したものかわかるだろうか。ソムリエの方なら、わかるだろう。
美味しいものを口にしたとき、つい我々は「頬が落ちそう」などの使い古された言葉や「なんともいえない」「言葉では表現できない」といった言葉で逃げてしまうものだ。しかし、ダールは茶目っ気たっぷりに、その先にある言葉をさがす。
そんな開高のダール評を、私は件の元編集者から話してもらった。しかし私は、その後ひとりで野球をTV観戦していて0-対0の9回にホームランが飛び出したとき、つい口から、「値千金」という余りにもありふれた言葉が、こぼれてしまったのである。
「当たり前」を超える言葉遊び。私もぜひ、知恵を絞り一生をかけて愉しんでいきたい。その時、私はそう思ったものだ。使い古された表現を知り尽くしたうえで、読み手の心をくすぐる“言葉遊び”をする。ダールの高等遊戯が、じつに心地良い。
次にその洗練された社会性について、説明したい。短編『味』は、ワインの銘柄当て(晩餐会の余興)で譲れなくなった男たちが、分別をなくしてしまう小説だ。二人を取り巻く登場人物が、次第に白熱していく様子が活き活きと描かれている。
一方は、小さな農園のワインを手に入れて「当てられるはずがない」とタカをくくり、自分の娘(の結婚)までも賭けてしまった成金男。もう一方は、自らの舌に絶対的な自信を持つスカした美食家。読者は、美しい娘をこの男に獲られたくない、とハラハラさせられる。
大きな労力をかけて選び抜いたワインのために、娘の将来を賭けてしまうほど分別をなくした男は、経済的には成功をおさめている。しかし、その実は薄っぺらな成金男である。彼のことを紹介する文章がとても鮮やかだ。
マイク・スコフィールドは人あたりのいい中年男ながら、株式仲買人だった。正確を期して言えば、証券取引所の場内仲買人で、彼の同類の多くがそうであるように、彼もまたささやかな才能で大金を稼いでいることをどこかしら決まり悪く、ほとんど恥のように思っているところがあった。 ~本書所収『味』より
今の日本において、株で儲けることに罪悪感があるかどうかは別として、同様の思いにかられている成金男は結構いるに違いない。一方、彼と対決する美食家は、自らの頭に溜め込んだウンチクで食いつないでいるクイズ王のような存在だろうか。
彼らのような存在は、今も私たちの周囲に存在する。そんな人間の業や薄っぺらさをダールは、肯定も否定もせずに描き出す。その筆致にはニタリと微笑むような毒を孕みながら、いささかの説教臭さもない。そこに余人を持って替えがたい洗練された社会性があるのだ。
文章に限らず、ビジネスでもスポーツでも「当たり前」を超えて自らの世界を表現したいと思う方がいれば、ぜひ本書を読んでみてほしい。そう思って読み進めていけば、心にくいまでのダールの“悪戯”に、あなたは何度もニヤリとさせられるに違いない。
『あなたに似た人』早川書房
ロアルド・ダール/著 田口 俊樹/翻訳