数学は「発見」か、それとも「発明」か?

長江貴士 元書店員

『神は数学者か?』早川書房
マリオ・リヴィオ/著 千葉敏生/訳

 

 

さて、本書は「数学」についての本である。

 

当たり前じゃないか、と思う人もいるかもしれないが、もう少し僕の話を聞いてほしい。

 

普通「数学」についての本という場合、「フェルマーの最終定理」や「ポアンカレ予想」など、個別の理論・予想について描かれているものが多い。あるいは、数学者個人の話や、ある数学の予想が解き明かされるまでの歴史を追った作品もあるだろう。

 

しかし本書はそういう類の本ではない。まさに、「数学」そのものをテーマに扱った作品なのだ。

 

もう少し具体的に書こう。実は数学者の間では、「数学」をどう捉えるかについて意見が二分しているのだ。それは、

 

数学は「発見」か?「発明」か?

 

という問題だ。とはいえ、この問題の意味がよく理解できないという人もいるだろうから、まずはここから詳しく説明していこう。

 

例えば、星について考えてみる。世界中には天文台もあるし、アマチュア天文家もいる。そして、新しい星を発見すると、発見者が好きな名前を付けることが出来る。さてこの場合、星を見つけることを「発明」と呼ぶ人はいないだろう。星は、人間が見つけようが見つけまいがずっとそこにあったはずだ。人間がその場所に望遠鏡を向けたからその星が生まれた、なんていう可能性はない。だから、星を見つけるプロセスは「発見」である。

 

一方、言語はどうだろうか。世界中には様々な言語があるが、これらについて「発見」と主張する人はまずいないだろう。もちろん、それまで知られていなかった言語(少数民族の言語か、かつて使われていて失われた言語など)を新たに「発見」することはあるだろう。

 

しかしそういう話ではなく、例えば日本語が、「日本人」が現れる以前から存在していて、「日本人」がそれを「発見」して使い始めた、などという可能性はゼロだろう。だから、言語が生まれるプロセスは「発明」だ。

 

このように考えた時、「数学」はどちらに振り分けられるだろうか?実はこの問題については、数学者の間でも統一見解が得られていないのだ。

 

「発見」派はこのように考えている。数学というのは、世界のありとあらゆる場面で適用出来る。本書ではそのことが【数学の偏在性と全能性】と表現されている。

 

数学は、自然界のみならず、人間の活動を記述する際も使える。例えば、金融業界においてオプション価格決定理論で用いられるブラック・ショールズ方程式というものが存在する。実はこれは、物理学のブラウン運動という現象を記述する方程式から生み出されたものだ。

 

自然界の現象を記述する方程式が、人間の営みである金融の世界でも適用出来るというのは、驚くべきことではないか。そしてこの偏在性と全能性を説明するために、「発見」派は、世界の設計者たる「神」が数学者だったのであり、神は数学を使ってこの世界を生み出した、と考えているのだ。

 

つまり、数学は神が生み出したものであり、数学者はそれを「発見」しているだけなのだ、と。このような立場を「プラトン主義」と呼ぶ。彼らは、「数学」というものが実在している、と考えているのだ。

 

一方、「発明」派の主張はこうだ。数学というのは、ゲームのルールのようなものに過ぎない。だから、実在するものとの関連性など不要だ、と。「無矛盾性(矛盾する部分がないということ)」が保たれるように人間が規則を定め、その規則に則って手続きを踏んでいるだけだと考える立場を「形式主義」と呼ぶ。

 

確かに、本書を読めば理解できるが、「非ユークリッド幾何学」の登場や、論理学に複数の種類が存在するという事実によって、「プラトン主義(「発見」派)」の勢いがどんどん弱まってきているようだ。しかし「形式主義」の最大の欠点は、【数学の偏在性と全能性】をまったく説明することが出来ない、という点にある。

 

そして本書は、この「プラトン主義」と「形式主義」という二つの観点から、「数学」の歴史を概略していく、という内容になっている。

 

元々「数学」は「発見」するものとして捉えられていたが、「非ユークリッド幾何学」の発見など「プラトン主義」にダメージを与える要素が様々に出てきた。しかしだからと言って「形式主義」が優勢と言うわけでもなく、「形式主義」の勝利宣言をしようとしたヒルベルトの野望を、ゲーデルという天才数学者が打ち砕いてしまう。

 

結局、発見か?発明か?論争は、未だにはっきりと決着がついてはいない、という状況なのだ。

 

さて、「非ユークリッド幾何学」が何故「プラトン主義」に衝撃を与えたのか、というざっくりとした説明だけしておこう。

 

元々「幾何学」と呼ばれているものがあり(これが現在の「ユークリッド幾何学」である)、この「幾何学」こそが、神が創造した永久不変の真理である、とかつては捉えられていた。それぐらい、世界を把握する際に、「幾何学」が抜群の威力を発揮したのだ。

 

「幾何学」というのは基本的に、5つの公理と呼ばれるものから成り立っている。公理というのは、「証明はしないけど絶対に正しいこと」みたいな意味であり、例えば、「すべての直角は等しい」とか「任意の点から任意の点に直線が引ける」などだ。当たり前すぎるほど当たり前のことばかりである。

 

その中に、「平行線公準」と呼ばれるものがあった。正確に表現するとちょっとめんどくさいが、不正確な表現で書けば「2本の平行線は交わらない」というものだ。これも当たり前だろう。

 

しかし色々あって昔から数学者たちは、この「平行線公準」を疑っていた。何故なら、この「平行線公準」を正確に表現すると、他の4つの公理と比べて明らかに文章が長く、「公理」と呼ぶには相応しくないように思えたからだ。だから数学者たちは、他の4つの公理からこの「平行線公準」を導き、「平行線公準」を公理から外したい、と考えていたのだ。

 

しかし次第に数学者たちは、「そもそも平行線公準を否定しても幾何学は成立する」ということを示すようになる。つまり、「幾何学(ユークリッド幾何学)」では「2本の平行線は交わらない」というルールでやっているが、「2本の平行線が交わる」というルールでも別の幾何学を作り出すことが出来る、ということだ。この新たな幾何学のことを、「非ユークリッド幾何学」と呼んでいる。

 

何故これが衝撃だったのか。それは、「発見」派である「プラトン主義」からすれば、幾何学は一つであるべきだからだ。彼らにとって、「数学」というのは実在するものであり、何種類も幾何学があっては困るのだ。この「非ユークリッド幾何学」の発見は、このような理由から「プラトン主義」にダメージを与えたのだ。

 

本書の最後では、「結び目理論」と呼ばれるものがかなり詳細に扱われている。この話を読むと、「数学」はやはり「発見」するもの、つまり神が作ったものなのかもしれない、と思いたくなる。

 

「結び目理論」は元々、原子モデルを説明するために作られた理論だった。しかしその原子モデルは早々に間違いであることが判明する。しかし、「結び目理論」そのものは、純粋に数学的な関心から長く研究が続けられていく。

 

しかし突如、この「結び目理論」は脚光を浴びることになる。なんと、生命の根幹を成すDNAと深い関わりがあると判明したのだ。さらにこの「結び目理論」は、宇宙のすべてを説明するという「万物理論」の候補として注目されている「ひも理論」とも関わりを持つことが分かっている。

 

間違いから生まれた理論が全然別の分野で息を吹き返す、というこの実例は、やはり神は数学者なのではないか、と感じさせるだけのインパクトを持つエピソードだと感じる。

 

『神は数学者か?』早川書房
マリオ・リヴィオ/著 千葉敏生/訳

この記事を書いた人

長江貴士

-nagae-takashi-

元書店員

1983年静岡県生まれ。大学中退後、10年近く神奈川の書店でフリーターとして過ごし、2015年さわや書店入社。2016年、文庫本(清水潔『殺人犯はそこにいる』)の表紙をオリジナルのカバーで覆って販売した「文庫X」を企画。2017年、初の著書『書店員X「常識」に殺されない生き方』を出版。2019年、さわや書店を退社。現在、出版取次勤務。 「本がすき。」のサイトで、「非属の才能」の全文無料公開に関わらせていただきました。

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