2020/05/22
内田 剛 ブックジャーナリスト
『あとを継ぐひと』光文社
田中兆子/著
実に魅力的な作品だ。何よりもまずテーマがいい。この世は変わりゆくものと全く変わらぬものとで出来ている。例えばいい書店はいつも変わらぬ定番の書棚と鮮度の高い話題書コーナーが充実していれば安心できるように、ビジネスの世界においてもその二つの要素が絶妙にミックスしていれば成功する。
大局的にいえば社会は個性と命を持った人間たちの集合体なのだから、世の中自体も壮大なスケールの生き物である。内なるもの外なるもの・・・様々な変化に対応しながら人類は成長し続ける。
一方ではもちろん、ヒトという遺伝子は揺るぎない核を持っている。どんなに大きな変容があったとしても子々孫々、種族を守ろうとする精神は無意識下に刷り込まれている。
不変な存在を内包し次の世代へと受け継いでいくことも人間の持って生まれた本能でもある。『あとを継ぐひと』がいまこのタイミングで世に送り出されたことには大いなる意義を感じる。
日進月歩の超情報化社会にあって、もともと急激に変貌を遂げている最中に訪れた危機。新型コロナウィルスの感染拡大という人類にとって未曾有の出来事に対峙し、この世界的にも国内でもありとあらゆる社会、組織すべてがこれまで経験したことのない変化を求められている。
まさに次の世代に生き延びるための対応力が求められている時代だ。そこで活かされるのは知識と経験、つまりは先祖、先輩から脈々と伝えられてきた魂である。
変わらぬもの、変わりゆくもの、どちらも生きていく上で必要なんだ。令和二年の春、この小説を手にした瞬間、ふとそんなことを考えた。
著者の田中兆子は実力派で新作が期待される作家の一人である。デビューは2011年「女による女のためのR -18文学賞」受賞であった。
昨今、女性作家の活躍が目覚ましいが、とりわけ吉川トリコ、宮木あや子、山内マリコ、彩瀬まる、窪美澄といったこの「R -18文学賞」出身著者たちが注目の的だ。
『甘いお菓子は食べません』で衝撃的なデビュー後も『劇団42歳♂』や『徴産制』『私のことならほっといて』と話題作を出し続ける田中兆子もこれから文壇の中心的な存在となるであろうことは容易に想像がつく。そんな今をときめく作家の新作、つまらないわけはない。
『あとを継ぐひと』はこの著者の引き出しの多さと、懐の豊かさを存分に楽しめる全6編の短編集である。
テーマは仕事。理容店、介護、駄菓子メーカー、酪農家、温泉旅館、チョーク会社、サラリーマン・・・それぞれの仕事の裏側が分かる舞台設定と人間味あふれたキャラクターがいい。
境遇や関係性は様々であるが共通しているのは醸し出される人情の妙であろう。人は優しいほど相手を思いやりすぎて介入できず、知らないうちに見えない壁を作ってしまう。気がつけばその壁は氷山となる。冷たい氷の壁が厚くなりすぎて、本音や表情さえも隠してしまうのだ。
「確執」という名の自分の掘った穴でもがく不器用な人間たち。後悔を背負って滑稽に生きる人々が人生の転機で見せる変化がなんとも優しくじんわりと胸を締めつける。雪解けのきっかけとその変化はそれほど劇的なことではない。
当たり前の日常と地続きなのだ。ほんの一歩踏み出して思いを伝えるだけの単純なものである。日常はいかにつまらない誤解に満ちているか。誤解が積もると後戻りのできないわだかまりにもなる・・・普段の心の有り様を考え直すきっかけもこの作品は与えてくれるのだ。
職場や家庭、その数だけ事情がある。それぞれの立場の視線を意識すればきっと目の前の景色も一変する。まさに視野を広げてより豊かに生きるヒントを与えてくれる実用的な物語でもあるのだ。
「仕事とは、1%の喜びのために、99%努力することだ。」(P72)
「孤独を知っている人ほど、相手を深く思いやれる」(P77)
「相手のことを知るって、じかに交わることで、わかっていくもの」(P101)
読み終えてハッとした。自分自身もこの物語の登場人物のひとりとなっていた。いい作品は自分にかえってくる。まさしく小説世界にどっぷりと没入出来たのだ。
仕事だけの話かと思ったら生き方そのものにも通じる物語である。自分も誰かから大切な何かを受け継ぎ、そして誰かに受け継ごうとしている。
この確かな事実が変わらぬ人としての生き方の原点であり、気持ちを奮い立たせる生きがいにも直結するのだろう。この世界はつなぎ伝えるもので出来ている。読みながら人生の真理も聴こえてくる、まさに世代を超えて読みたい価値のある一冊だ。
『あとを継ぐひと』光文社
田中兆子/著