2021/04/26
横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店
『スモールワールズ』講談社
一穂ミチ/著
光を浴びることでしか輝けないネオンテトラが、水槽のなかを漂うように。
ビニール袋に入れられた金魚が酸素を求めて水面に顔を出すように。
小さな箱の中で、あるいは閉じ込められた空間で――
私は、自ら輝くことができない。
私を取り巻く空気には、圧倒的に酸素が足りない。
でも、ここから飛び出したところで、行く当てなどどこにもない。
死にたくはない、けれど生きたくもない。
こんな私は、この場所でもがき苦しんでいるくらいで丁度いい。
6つの短編からなる物語の主人公たちは、歪でどうしようもない生きづらさを抱えている。
「ネオンテトラ」は、居場所のない少年と、その少年を見つめる既婚女性の物語だ。
主人公の美和は34歳で、美しい容姿を生かしモデルの仕事をしている。広告代理店に勤める夫は“良き”旦那さん。海外赴任中の姉夫婦の子ども、中学生の姪は遊びに行きたいとしょっちゅう連絡をよこしてくる。愛する夫に、可愛い姪。絵に描いたようなしあわせな暮らし。
でも、美和には命が宿らない。健やかな寝息を立てる夫が不倫中であることは分かっている。子ども特有の無神経さで姪はプライベートにずかずかと入り込んでくる。
夫に愛されていないわけではない。姪は自分を慕っているのだ。しかし、本当に望むものが手に入らない美和の中で、「空っぽ」の部分が日に日に大きくなっていく。
夫の帰宅は今日も遅い。喫煙のためベランダに出た美和は、中年の男性が男の子を怒鳴りつけているのを見つける。遠くから見る美和にも分かるほどの剣幕で怒鳴り散らす男と、かくりと首を折り項垂れた少年。二人の関係性は分からない。しかし、男に罵声を浴びせられている少年は学ランを着たままで、姪が通う学校のリュクを背負っていた。
さりげなく彼女に少年の話を切り出すと、情報はあっけなく手に入った。
彼の名前は蓮沼笙一。三人きょうだいの真ん中で唯一の男の子。彼だけなぜか父親に嫌われていて、父が酒に酔って眠るまで時間をつぶしていることは、周知の事実なのだという。学校での彼は、自身の境遇をネタにできるくらいは強い。
けれどあの夜の痛々しい姿を目撃してしまった美和は、彼が「平気」で「大丈夫」などとは、とうてい思えなかった。
夜のコンビニで時間をつぶす笙一と、つかの間の時間を過ごすようになった美和。そこに「恋」はもちろんない。中学生の少年に抱く恋心なんて、ありえない。
けれど、「愛」は芽生えてしまったのかもしれない。
美和の家にあるネオンテトラの水槽。子ども部屋になるはずだったそこに、閉じ込められた魚たち。彼と二人で見る、箱のなかで光を浴びて輝く魚たち。
震える手、揺れる瞳。不器用な手つきで拭われた涙。ぎこちなく粗雑なふるまいに、世界で一番美しい輝きを秘めた瞳。
彼の中にある圧倒的な輝きを手に入れたいと、美和は思ってしまった。
だから、二人を泳がせた。
美和が手に入れたものは、「しあわせ」という言葉に当てはめてはいけないものだ。真実を告げることは許されず、秘密を抱えたまま生きていかねばならないだろう。
でも、命の中に「彼」がいる。目の前の命に彼のかけらが宿っているから、よりいっそう愛おしい。
縋りつかなければ立てない弱さを持つ人々を、「分からない」と突き放すことなんてできない。
「花うた」では、二人の手紙のやりとりを中心に物語が進む。
向井秋生様
新堂深雪様
秋生からの手紙には、いつも小さな桜の文様が刻印されていた。検閲した印である桜の文様。秋生は、深雪の唯一の家族であった兄を突き飛ばし、死亡させてしまった事件の加害者だった。
被害者と加害者、月に一度ほど交わされる往復書簡。
秋生からの手紙には反省の色が見られないように思えた。そもそも彼は言葉をうまく使えず、書くことも読むこともままならない。何が良くて何がだめなのか、善悪の判断も欠如している。彼の言葉は、深雪をさらに傷つけるものでしかない。
秋生からの手紙に怒りを爆発させる深雪。なぜ、たった二人で暮らしてきた兄を奪われなければならなかったのか。なぜ、慎ましく生きてきた「私たち」にさらなる不幸が襲いかかって来たのか。どこにもぶつけられない怒りが、文字になって秋生に届けられる。
深雪が十歳、兄が二十歳の頃だった。両親が事故で亡くなって、兄妹は慎ましく身を寄せ合って暮らしてきた。外の世界に楽しみを見出すこともせず、兄が決めたレールの上を何の疑いもなく進んでいた。
疑う余裕も余地も、どこにもなかった。なのに。
全く違う道を歩んできた二人。被害者と加害者という立場に置かれることでしか、出会うことのなかった二人。
このことを、ただ「不幸」という言葉に放り込むことができたらよかったのだろうか。
手紙の束が厚くなるごとに、秋生の過去が語られていく。中学生の頃から、学校にも行かず“運よく捕まらなかった”だけの生活をしてきた彼は、どこにも居場所がなかった。普通の家庭の姿を知らず、普通の暮らしを知らない。抑えられない暴力性は、心にあいた空虚な穴から来ているものだ。だからといって、人を殺していいはずはもちろんない。
深雪の中にあるぽっかり空いた大きな穴。それは、秋生と出会う以前のもの、そして秋生が犯した罪をきっかけにさらに大きく引き裂かれたもの。
内側に空いた大きな穴。それは、互いの中にあると知ってしまった。
少し近づき、また距離をとって。
過去を知り、今を交わすことで互いの存在が大きくなっていく。
次第に絡まり合っていった手は、あのとき放すべきだった?
秋生が好きだといった歌。彼がもうその歌を口ずさむことはない。懺悔とともに、やさしさを滲ませるようになった彼は、もう過去の中にしかいない。
秋生が好きだと言ったこと。好きだったのは、桜のはな。朝食の時間に流れるキラキラした美しい音楽。それを、眠れぬ夜に鼻歌で歌うことが習慣になったのに。
深雪だけが覚えているかつての彼。深雪が忘れたら、永遠に消え去ってしまう「向井秋生」というたった一人のひと。
深雪は、大きな決断をする。
誰にも理解されない二人がともに生きる。批判も非難も、祝福ですら二人には必要ない。
二人でともに。ただ、それだけしか望まないから。
――どうか、どうか。
ページの合間、何度も深く息をつかなければならない。そうすることでしか、生まれた感情を上手く飲み込むことができなかった。感情の波に襲われ、しまい込んだ孤独が露呈して、溺れているみたいにうまく呼吸ができない。
けれど、思わず見上げた空は青く、どこまでもどこまでも、透き通っていた。そこには、よりいっそう美しさを増した世界が、ただ広がっていた。
たったこれだけのことに、視界は滲み、剥き出しになった心が震えてやまない。
痛くて、怖くて、少しうれしいと思ってしまう私は、素直になりすぎているかもしれない。
孤独や絶望を内に秘めた人たちばかりだった。暗闇の中から必死に光に手を伸ばし、でも届かなくて、弱々しく微笑んでいるような人ばかりだった。
私は、彼女たちとは違う。“違う”道に進めるように、強固な仮面を被り、ひた隠しにしてきたはずだった。
なのに、すべて暴かれてしまった。
「人々」が抱える傷は、私の中で熱を帯び続けるものと同じだった。
物語の中の傷に、癒されるなんて夢物語はもう語られない。それは、傷を抱えたままの「私たち」が語れるはずもないことだった。
だから、このままそっと、仄暗いままで。
仄暗い世界を、ともに。
生きていってもいいですか?
『スモールワールズ』講談社
一穂ミチ/著