「ほとんどの人は本質的にかなり善良だ」若き歴史家が定説を覆し証明する人間の本性

三砂慶明 「読書室」主宰

『ヒューマンカインド 希望の歴史』文藝春秋
ルトガー・ブレグマン/著

 

恥ずかしながら、はじめてこの本を店頭で見た時、すぐに反応することができませんでした。しかしながら、ページを開き、行を追っていくごとに、著者がこの本で成し遂げようとする途方もない試みに引き込まれました。ページをとじたときにこみあげてきたのは、読み切ったという達成感とともに、この本が多くの人に読んでもらえたら世界が変わるのではないかとの予感です。

 

著者、ルドガー・ブレグマンは、オランダ出身の歴史家でありジャーナリストです。その特徴は現代社会のさまざまな矛盾点を解決するために、問題の背景を自身の目と手で深く掘り下げ、それを解消するためのデータと実践を示します。前著『隷属なき道』で示したのは、貧困を撲滅するための地図でした。労働時間の短縮、ベーシックインカムの導入、そして国境のない世界が、それを実現するという革新的なアイデアでした。
続く本書で、ブレグマンが立ち向かうのは、人間は善なのか、それとも悪なのか、という西洋思想史を分断する大きな壁です。

 

人間は生まれながらに罪深い。
古くは、キリスト教の「原罪」に象徴されるように、マキャベリの『君主論』、ホッブスの『リヴァイアサン』、ベンサムに、ニーチェ、フロイトにダーウィンといった偉大な思想家は、人間とは利己的な生き物であることを一貫して説き続けてきました。こうした西洋思想の系譜は現代に至るまで堅牢で、ドーキンスの『利己的な遺伝子』や、私たちの血には暴力が流れていると指摘したピンカーの『暴力の人類史』など、ジャンルを問わずに、ありとあらゆる論客たちが、人間の天秤が悪に傾いていることを教えてくれます。

 

本書がすさまじいのは、こうした否定的で、堅牢な西洋思想の系譜に、「否」をつきつけることです。ノーベル文学賞を受賞したウィリアム・ゴールディングが、少年たちの残虐さを描いた『蠅の王』を検証するために、実際に無人島に取り残された少年たちを探して現実の「蠅の王」に光をあてます。
また、人間がこの世に生み出した地獄、アウシュビッツと向き合うために、人間の悪の構造を解明した有名な心理実験を検証します。善良な少年でも機会があれば暴君にかわってしまう「スタンフォードの監獄実験」や、人間は怪しげな権力者におとなしく従ってしまうことを明らかにした「ミルグラムの電気ショック実験」が本当なのかを確かめます。当時の一次資料にあたり、実験に協力した人たちに丹念に取材した結果、驚くべきことに社会心理学の定説となったこれらの実験には創作が含まれており、実験結果に信憑性がないことを明らかにしてしまいます。

 

ブレグマンが光をあてるのは、古典だけではありません。
ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』やスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』、さらにはリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』に、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』など燦然と輝く現代の知性に異議を申し立て、人間は善なのだ、と言い切る著者の筆力には、感動しました。この本が証明するのは、たった一つのことです。

 

「ほとんどの人は本質的にかなり善良だ」。

 

そして、このことが証明できれば、私たちは私たちの世界を変えることができると、著者は力強く語ります。本書の中に、作者不明のインターネット上で流布されている寓話が紹介されています。

 

「おじいさんが孫の男の子に語ってきかせた。「わしの心の中には、オオカミが二匹住んでいる。この二匹はいつも激しく戦っている。一匹は悪いオオカミだ。短気で、欲張りで、嫉妬深く、傲慢で、臆病だ。もう一匹は善いオオカミだ。平和を好み、愛情深く、謙虚で、寛大で、正直で、信頼できる。この二匹は、おまえの心の中でも、他のすべての人の心の中でも戦っているのだよ」

 

孫は少し考えてから尋ねた。「どっちのオオカミが勝つの?」
老人は微笑んでからこう答えた。
「それは、おまえが餌を与えた方だ。」

 

もし、ブレグマンが説くように、人間の存在が、本質的に善なのだとすれば、そうなっていない理由は一体なぜなのか。どこで道を間違えたのか。ブレグマンは、資料にあたり、世界を取材してまわりながら、まったく新しい希望の歴史の鉱脈を探り当てます。
偉大な思想はいつも何度も何度も挫折しながら、世の中に革命を起こしてきました。この本は、読んだ人に希望を与える宝石のように、硬くて、美しい、光にみちた希望の書です。

 

『ヒューマンカインド 希望の歴史』文藝春秋
ルトガー・ブレグマン/著

この記事を書いた人

三砂慶明

-misago-yoshiaki-

「読書室」主宰

「読書室」主宰 1982年、兵庫県生まれ。大学卒業後、工作社などを経て、カルチュア・コンビニエンス・クラブ入社。梅田 蔦屋書店の立ち上げから参加。著書に『千年の読書──人生を変える本との出会い』(誠文堂新光社)、編著書に『本屋という仕事』(世界思想社)がある。写真:濱崎崇

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