2020/07/23
長江貴士 元書店員
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』河出書房新社
飲茶/著
本書で扱われるのは、東洋哲学である。しかしその前にまず、西洋哲学と東洋哲学の違いを理解しておかなければならない。この両者はまったく違うものであり、その違い故に東洋哲学がどれだけ理解しにくい思想体系なのかということを、まず理解しておかなければならない。本書でも冒頭で、こんな風に書かれている。
まず最初にはっきりと断っておくが、本書を読んで東洋哲学を理解することは不可能である
何故そう言い切れるのか。まずはその辺りから理解していこう。
まずは西洋哲学から。西洋哲学というのは基本的に「無知」を前提とするらしい。自分はまだ何も知らない、というところから始めて、色んな人間が知力を振り絞って、一段ずつ階段を上がるようにして知を積み上げていく。誰かが何かを言ったら、それを土台にして、あるいはそれを蹴飛ばすようにして新しい考え方を積み上げていく。そうやって、大勢で知恵を振り絞って遥かな高みを目指そうではないか。これが西洋の考え方である。
しかし東洋哲学はまったく違うのだ。
(東洋哲学とは)ある日突然、「真理に到達した」と言い放つ不遜な人間が現れ、その人の言葉や考え方を後世の人たちが学問としてまとめ上げたものであると言える。
この説明だけで、どれだけ両者が違うのか理解できるだろう。東洋哲学には、最初から真理があるのだ。何故そこにたどり着いたのか、どのようにたどり着いたのかという過程はとりあえずどうでもいい。まず真理にたどり着いたと主張する人間がいて、その教えを様々に解釈して生まれるのが東洋哲学なのだ。そういう理由で、仏教に様々な宗派が生まれることになる。
この違いを、著者はテレビドラマで喩える。西洋哲学の場合、ある一人の哲学者の主張を学ぶことは、全12話のドラマの5話だけ見るようなものだ。全体の流れの中で見なければ個々の哲学も理解しにくい。西洋哲学が難しいと感じられる理由はここにあり、12話全部見れば、基本的には西洋哲学というのは理解できる、というのが著者の主張だ。
しかし東洋哲学はそうではない。東洋哲学の場合、テレビドラマは全12話ではなく、最終話しかない。ドラマがスタートしたかと思えば、それは最終回であり、それまでの説明は一切されないのだ。だからその最終回を見た者たちは口々に、「あの登場人物はこんな生い立ちに違いない」「あのシーンの主人公のセリフはこんな意味に違いない」とあーだこーだ議論を重ね、その解釈の違いによって様々な流派が生まれるのだ、という。なるほど分かりやすい説明だし、東洋哲学が理解しにくいものだということも理解できた。
さらに本書で指摘されているのは、「知ったとみなされる状態」についてである。本書ではこう説明されている。
西洋であれば、「知識」として得たことは素直に「知った」とみなされる。(中略)
しかし、東洋では、知識を持っていることも明晰に説明できることも、「知っている」ことの条件には含まれない。なぜなら、東洋では「わかった!」「ああ、そうか!」といった体験を伴っていないかぎり、「知った」とは認められないからだ
西洋であれば、本で読めば知ったことになる。しかし東洋ではそうではない。いくら話を聞こうが、本を読もうが、人に説明できるまで理解できていようが、そんなことは一切関係ない。東洋では、いわゆる「悟った」という状態にならなければ「知った」と認められないのだ。つまり東洋哲学というのは、その語られている内容そのものではなく、「いかに悟るか」という体系にこそ本質がある、というのだ。
そう説明されれば、禅の公案なども理解しやすくなる。公案というのは例えば、
両手で拍手するとパチパチと音がするけど、では片手でやるとどんな音がする?
というようなものであり、身も蓋もない表現をすれば「絶対に解けないなぞなぞ」のことである。この公案が何故悟りに至る体系として利用されていたのか、というのが本書で説明されるのだが、東洋哲学のこういう背景を理解していれば非常に受け入れやすくなる。
しかし著者は、東洋哲学のこのような側面を知識として知ってしまうことはむしろマイナスである、とも書いている。公案というのは「解けなくてウンウン悩み続ける」ということにこそ意味があるのであって、「公案って別に解けるつもりで出されてるわけじゃないらしいよ」なんてことを先に知ってしまえば、台無しだというのも理解できるだろう。だからこそ、
そう、だから、ネット検索による知識の公開、そして本書のようなお手軽な入門書といったものは、本当は伝統的な東洋哲学を破壊してしまう存在なのだ
というようなことを書いているのだ。
さらに東洋哲学の特徴としてもう一つ挙げられるのが「ウソも方便」である。
先程東洋哲学というのは、「いかに悟るか」という体系にこそ本質がある、と書いたが、この「ウソも方便」もまさにその一環である。つまり、
東洋哲学はあらゆる「理屈」に先立ち、まず「結果」を優先する
のである。とにかく、なんでもいいから「悟る」ことが大事であって、その過程なんかどうだっていい、というのが東洋哲学だということだ。
この説明のために著者は、法華経に載っているというある例を引き合いに出している。父親が家に帰ると家が燃えていたが、子どもたちは「火事」というものを知らず、家の中で遊んでいる。ここで子どもたちに、「火事というのはこれこれこういうもので危険だからそこからすぐに離れなさい」と言っても、理解できないかもしれないし、興味がないから聞かないかもしれない。でも火の手はもうすぐそこまで迫っている。どうする?そこで父親は、「こっちに凄く楽しいおもちゃがたくさんあるよ!」と呼びかけた。子どもたちはわーっと父親の元へと駆け寄り、命は助かった。まさに「ウソも方便」であるが、これと同じようなことも東洋哲学もやっているのだ、という。だからこそ、余計に東洋哲学は理解しがたいのだ、と。
本書を読んで僕は、「東洋哲学の理解出来なさ」について理解出来、まずその点が非常に面白かった。今まで「悟り」というのがピンと来なかったが、「悟り」を体験したことがない人間がピンと来ないのは当然だし、また東洋哲学というのは、その「悟り」に至る様々な手法を開発してきた歴史そのものなのだ、という説明は、今までまったく知らなかった話なので興味深かった。
さて、僕がここで説明してきた話は、本書の中ではほんの十数ページだろう。基本的には本書では、ヤージュニャヴァルキヤから仏教の釈迦が生まれ、さらにそこから「色即是空」を生み出した龍樹へとインド哲学の要点を掻い摘む。また、孔子・莊子・韓非子・荀子・老子などに代表される中国思想がどのようにして生まれたのか、また日本に何故仏教が定着して行ったのかなどが説明されていく。この流れは非常にスリリングで知的好奇心を刺激されるものだ。是非本書を読んでみて欲しい。
最後に、非常に面白かった禅のエピソードを紹介して終わりにしよう。
禅というのは伝統的に、悟ったものが後継者となる。で、禅を生み出した達磨から数えて五代目である弘忍の元に、慧能という天才がやってくる。慧能は、後に弘忍から後継者と認定されるが、寺にやってきた時は極貧の木こりで、読み書きは一切できず、寺にも雑用係として採用された。
弘忍には弟子がおり、ある時弘忍は、自分のたどり着いた境地を詩にしてみろ、悟った者がいれば後継者とする、と彼らに告げた。弟子たちは頭を振り絞り詩作する。中でも優秀と言われていた神秀という弟子がきっと選ばれるだろうと誰もが思い、やはりその詩は素晴らしかったが、そこに通りかかった慧能がその詩の内容を教えてもらうと、「この詩を書いている人はまだ悟ってないみたいですね」と言った。爆笑した弟子たちは、じゃあお前が詩を書けと言ってきた。字を書けない慧能は、口頭で詩作し、それを弟子が書きつけた。そこにちょうど師である弘忍が通りかかり、慧能の詩を見て、「こんなくだらない詩を書いたやつは誰だ。こんな詩を書いた人間は悟っていない。消せ」と命じた。
さて、その夜のこと。弘忍は慧能の寝室までやってきて、自分が着ている袈裟(これを受け継いだ者が後継者とみなされる)を渡し、「弟子たちの中で悟っているのはお前だけだ。だからお前が後継者だ。だが、そのことを知れば他の弟子たちが怒り狂い、お前は殺されるだろう。だからこの袈裟を来てさっさと逃げろ」と言ったのだ。
翌日、弘忍が袈裟を着ていないことに気づき、弟子たちは弘忍を問い詰めるが弘忍は何も喋らない。しかし、慧能の姿が見えないことから、彼が後継者に選ばれたのだと理解した彼らはやはり怒り狂い、慧能を探し出そうとした。しかしその頃慧能は無事に南に逃げており、こうして禅がちゃんと継承されることになった、というエピソードである。なんともワクワクさせる話ではないか。
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』河出書房新社
飲茶/著