夏目漱石が主人公なのにオープニングはセント・ヘレナ島? 大胆な場面転換がスケールを感じさせる物語

金杉由美 図書室司書

『ミチクサ先生』講談社
伊集院静/著

 

 

『ノボさん』で正岡子規と夏目漱石の友情を描いた著者が、満を持して夏目漱石を主人公に据えた長編小説。
それなのに、物語のとっかかりはなんと1817年のセント・ヘレナ島から。
島に幽閉されていた元皇帝ナポレオンが英国軍艦の艦長に極東の国「ジパング」に住む人々のうわさを聞かされ、その約50年後にパリ万博で「日本」が注目を集め、同じころ東京で夏目金之助が両親の恥かきっ子として生まれる。
序章でカメラを大胆に取り廻して場面をバシッバシッと切り替えていった後は、金之助こと夏目漱石の生涯がズームアップされる。

 

生後間もなく養子に出されたものの出戻りし、養親の家にも実親の家にも居場所がなかった少年時代。
ミチクサしながらも学問に励み、生涯の友と出会う学生時代。
教師となって愛媛そして熊本に転任し、妻を得て英国留学に向かう青年時代。
帰国後、帝大の教師を経て作家デビューし、朝日新聞社に所属して次々に話題作を発表し売れっ子となる、小説家としての黄金時代。
金之助のミチクサに付きあい、心の機微に寄り添いながら、物語はその一生を綴っていく。

 

知っているつもりで知らなかった夏目漱石。
個人的にはこの文豪を見る目がかなり変わった。

 

名主の家に生まれて、養子にいったとはいえ最終的には実家に戻り大学にまで進学させてもらった、苦労知らずのぼんぼん。
「坊ちゃん」の主人公のように、江戸っ子を鼻にかけ田舎を疎んじ生徒たちをバカにしている、無鉄砲で社会不適応な落ちこぼれ教師。
英国留学中にコンプレックスから鬱になって引きこもり、「発狂しちゃったらしい」とまで言われたメンヘラ。
悪妻として有名で自殺未遂を計ったこともある奔放な鏡子に振り回され、持て余していた夫。
多くの弟子に囲まれチヤホヤされながらもムスッと不機嫌に胃痛をかかえる気難しい文豪。

 

そんなイメージがガラガラと崩れた。

 

親との縁が薄く、気にかけてくれていた長兄や母とも死に別れ、途方に暮れていた少年。
夢と希望をもって進学し、友人たちと親しみ、何事にも好奇心を持って取り組んだ青年。
金欠に悩まされながらも、異国で知識を得ることに一心不乱だった留学生。
教え子たちに敬愛され、講義は大入り満員だった人気教師。
心の不安定な妻を愛し庇護し、沢山の子供たちに囲まれ慈しんでいた一家の主。
常に新しいテーマに意欲的に取り組み、編集者的なセンスも抜群で弟子や後輩たちを引き立てた、プロフェッショナルな作家。

 

いいじゃん漱石。
かなりいいじゃん。いい人じゃん。

 

若い頃から親交を深め家族ぐるみの仲だった畏友、正岡子規。
その子規と似たものを感じ常に心にかけていた年下の友、寺田寅彦。
この二人をはじめとする友人たちとの関係も素晴らしい。
お互いに尊敬しあい認め合い、生まれ育ちや年齢など関係なく結びついた友情。
大きく寛く理想高く、青雲の志を胸に羽ばたいていた男たちの姿が、瑞々しく丹念に描き出されている。
これは、とても美しく善い物語。

 

こちらもおすすめ。

『ものがたりの賊』文藝春秋
真藤順丈/著

 

竹取の翁の血によって不老長寿を得た、「山月記」の人虎、「高野聖」の聖、「伊豆の踊子」の踊り子、「源氏物語」の光源氏、「大菩薩峠」の机龍之介、「坊ちゃん」の坊ちゃん。
彼らは関東大震災直後の混乱の中で集結した。
病原菌をまき散らし進軍してくる神州纐纈城の軍団から、帝都東京を死守するために!
波瀾万丈すぎてアゴが外れる大スペクタクル・エンターティメント。
坊ちゃんは元ネタよりはかなり好感度高い熱血漢。

 

『ミチクサ先生』講談社
伊集院静/著

この記事を書いた人

金杉由美

-kanasugi-yumi-

図書室司書

都内の私立高校図書室で司書として勤務中。 図書室で購入した本のPOPを書いていたら、先生に「売れている本屋さんみたいですね!」と言われたけど、前職は売れない本屋の文芸書担当だったことは秘密。 本屋を辞めたら新刊なんか読まないで持ってる本だけ読み返して老後を過ごそう、と思っていたのに、気がついたらまた新刊を読むのに追われている。

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