人に言えない悲しみを、どう聞き、どう伝えるか

鈴木利宗 ルポライター

『わたしからはじまる――悲しみを物語るということ』小学館
入江杏/著

 

「私は世田谷事件という殺人事件の遺族なんです」

 

事件から6年ものあいだ、著者の入江杏さんはこの「ひと言」が誰にも言えなかった。
2000年12月31日、東京都世田谷区で発覚した、世田谷一家4人殺害事件。

 

被害に遭ったのは、宮澤みきおさん(当時44)、妻・泰子さん(同41)ご夫妻に加え、まだ幼い長女・にいなちゃん(同8)と長男・礼くん(同6)だった。

 

巷間が新世紀を迎える高揚感で浮き立つなか、人の所業とは思えない残忍極まりない手口で「大切な妹一家」の命を突然、無下に奪われたのが入江さんなのである。

 

事件発生から22年目の今日現在、いまだ犯人が逮捕されていない未解決事件ではあるが、第一報の直後から入江さんと家族、つまりご遺族は壮絶な二次被害にさらされてきた。

 

それは、過剰という言葉では補いきれない、夥しい報道陣による、ひっきりなしに続く執拗な取材攻勢、いわゆるメディア・スクラムといわれるものだ。
第一発見者となった実母は警察以外に事件のことを語らず、世間から孤絶するような生活になってしまった。入江さんも、その母から「事件のことを口外しないで」と懇願され、以後、長いこと語らなかった……。

 

その入江さんが、時を経て、いまは文筆家として言葉を紡ぎ、事件・事故の被害者であるかにかかわらず、「大切な人やもの、かけがえのない関係を失った悲しみ」を抱える人たちのネットワークづくりに努めている。主宰する「ミシュカの森」では、講演会やアートのワークショップをはじめ、絵本の読み聞かせや読書会も行っている。
そして講師を務める上智大学グリーフケア研究所では、悲しみを抱える人の気持ちや、ためらい、それを聞くことの大切さ、心構えを伝えている。

 

ここに至るまでの大きな心の変革は、まず「スティグマ=特定の境遇下の人が被る負の烙印、偏見」の存在を認識したこと。そして、’06年から次第に増えていった人との出会いによって、そのスティグマの呪縛から脱却できたことによるのだと、本書『わたしからはじまる――悲しみを物語るということ』(小学館)で綴っている。

 

この過程で入江さんの胸には、’10年に先だった最愛の夫の言葉が去来していた。

 

「過去は変えられないけれど、今と未来は変えられる」

 

入江さんはこれを心に刻み、人に自身の経験を語ること、心情を打ち明けることによって、事件後に負った世間からの烙印や偏見をなんとか振り払って、ここまで来たのだ。

 

この論旨を被害者遺族の特異な体験による特殊な結論付けと括ってしまうと、私たちは自分や大切な人の大事において、判断を見誤ってしまう可能性がある。

 

入江さんは事件被害者の遺族だが、事件のみならず事故死や自死、病死でも、大切な人を突然失くす可能性が私たちにはある。そしてそのとき、誰もが悲しみを抱える「遺族」となり得る。

 

つまり、誰かの吐露を傾聴すること、誰かの悲しみに気づくこと、そして自分の抱える悲しみを語ること……それらは本来、地続きの性質を持っているはずなのだ。

 

もしも自分の大切な人が周りに心を開かない、あるいは開こうとしないとき、私たちはなにをもってアプローチし、どうコンタクトすればいいのだろう。それにはまず、入江さんの体験と語りに耳を傾けてみるのが得策ではなかろうか。

 

周囲にそんなシグナルを発信する誰かがいないか、いま一度見渡してみよう。

 

もしかしたら、いちばんなにかを発信したくて、誰かにうなずいて聞いてほしいのは、案外、あなたかもしれないけれど。

 

『わたしからはじまる――悲しみを物語るということ』小学館
入江杏/著

この記事を書いた人

鈴木利宗

-suzuki-toshimune-

ルポライター

1972年静岡県生まれ。早稲田大学在学中に応援部主将を務める。卒業後、さまざまな職種を経て2000年よりルポライター。著書に『地獄の伊東キャンプ 一九七九年の伝道師たち』(大修館書店)、『なでしこという生き方』(セブン&アイ出版)、『「だましだまし生きる」のも悪くない』(光文社新書、香山リカさんとの共著)がある。

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